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解放

 

僕は、ただ自由になりたかった。

 

【自由】という言葉に惹かれ続けた・・・

 

そして、【自由とは一体何か】ということをずっと考えてもいた。

 

当時20歳ぐらいだったと思う。

 

 

 

抑圧された社会。

 

封建的な会社。

 

20歳の若者にとって、

 

反発心を抱く上で、これ以上ない環境だった。

 

もしかしたら、

 

当時の自分にとって、その【不自由さ】は、

 

幸せだったのかもしれない・・・

 

 


もし、仮に自由な環境であれば、

 

僕の中で【自由を手にしたい】という願望は、生まれなかっただろう・・・

 

 

 

僕は、会社を辞め、

 

社会から飛び出し、

 

そして、日本からも抜け出してしまった。

 

独りフランスに旅立った僕の中には、

 

解放感と同時に無気力で無力な自分がいた。

 

全ての抑圧から解放されたはずの僕には、何もなかった・・・

 

 

 

【自由って一体なんだろう・・・】

 

 

時が過ぎ、

 

僕は、シェフになった。

 

もう、上からの指示で料理を作ることはない。

 

僕は、僕の料理を作ればいい。

 

僕は、自由なのだから・・・。

 

 


そこでも、また抑圧が待っていた。

 

業界には、フランス料理とはこういうものである・・という

 

暗黙のルールや規範があった。

 

 


今にして思えば、それは幸せなことだったのかもしれない。

 

その枠から一歩はみ出すだけで、

 

異端と呼ばれる。


それは、批判でるあると同時に、

 

周りの料理人にとって脅威でもある。


僕の表現は、良くも悪くも噂になった。


僕の住む街は、閉鎖的だ。

 

そして、ほんの小さなコミュニティーで形成されている。


ちょっと変わったヤツが出てくれば、

 

アッという間に噂にしてくれる。

 

僕にとってソレは好都合だった。


批判されればされるほど燃えてくるし、

 

抑圧が強ければ強いほど、

 

そこからはみ出そうとする。


だけど、今の僕には戦う相手がいない・・・

 

社会にも受け入れられ、

 

会社は僕のもの。

 

この業界でも、そこそこ名前が売れた。

 

もう、昔のように反発する相手がいなくなった。

 

 


業界では今、何をしたところで世界という枠組みの中では、

 

平凡の域を出ない・・・

 

この街で個性的であろうとも、

 

世界のガストロノミーの中では、

 

取るに足らないことだ。

 


自由であることやエキセントリックなことは、

 

もはやスタンダードであるといってもいいぐらいに、

 

世界の食のシーンは、自由に溢れている。

 

そうなってくると逆に、

 

際立ったシンプルさや素朴なものの方が個性的にも見えたりする。

 

僕の求めていた【表現の自由】って、一体なんだったのだろうか?

 


【枠】というのは、大切なものだ。

 

そして【自由】というのは、

 

逆に表現をつまらないものにしてしまいがちだ・・・

 


【自由】は時に

 

解釈の過程で、

 

【デタラメ】にもするし、

 

【なんでもあり】にしてしまう・・・。

 


デタラメやなんでもあり・・は、ルールの枠に収まっていない。

 

格闘技の世界で【この試合のルールはなんでもありです・・】とかいったりするが、

 

なんでもあり・・は、ルールじゃない・・。

 

ルール違反すらルールです・・という解釈がめちゃくちゃだ。

 

そういう類のものには、品がない。

 

そして【面白味】がない・・・。


ルールや枠があるからこそ、

 

【際立つ】表現がある。


僕の持ち味を考えても、

 

今の【なんでもあり】の世界は、

 

非常に【生かされない】

 

自由があまりに飛躍していくと、

 

【解放】は解放ではなくなるし、

 

表現の爆発力は半減する一方だ。

 


【解き放たれたい・・・】


表現者にとって、

 

そのエネルギーが表現に爆発力を生み出し、

 

光と輝きを与える。

 


僕が待ち望んだ【自由の世界】は、

 

手にしてみると、

 

【何もない世界】だった。

 


まるで、20歳のころに感じた

 

あの空虚な気持ちと重なるように・・・

 

 

 

 

 

 

 

真実は、美しい。 美しさもまた、真実である。


【真実は、美しい。 美しさもまた、真実である】

 

この言葉は、ある細胞学者の英語文を私が自分の解釈で和訳したものである。


ネットで検索しても、これと同じ文は出てこない。

今後、この言葉を検索するとこのブログに辿り着くはずだ。


・・


この言葉は、実に深い・・・。

たったこの一文で、全てを言い表しているように思える。


美しさとは何か?


という漠然とした問いに対して、

その更に上をいく抽象的な答え。


しかしながら、

この言葉は、

その全ての意味合いを内包しながらにして、

シンプル且つ、的確に

その答えをいい表している。


この文こそが、まさに美しい・・・


・・・


引くことも、

足すことも出来ない、

過不足のなく流れる言葉。


美しさとは、

そういうものだ。

 

そして、それが真実。


真実には、補足など必要がない。

嘘には常に言い訳がついて回る。


・・・


僕の汚れた精神は、

いつも、真実を突き付けられ、

怯え、跪く・・・


僕にとって、表現とは修行であり、

精神の浄化であり、

自己の探求である。


いつも、自分を探し、

美しさを求め、

真実を追いかける・・・

 

 

 


【真実は、美しい。 美しさもまた、真実である】

 


本当に美しいものに出会いたい・・・

 

そう心から願う【精神】


その【祈り】の中に

自分の本当の【姿】が見えたとき、

僕は終わってもいいのかな・・・

 

真実の美しさを知らずして、

死にゆくことは、実に悲しいことだ・・・

評価


あなたは、僕を過大評価しすぎだ。

僕は、あなたが思うほど、才能はない。


そして、君は僕を過小評価しすぎのようだ。

僕は、君に理解されるほど、単純ではない。


僕は、時に絶賛され、そして酷評される。


世間はバカだと思っていたが、

思ったほどバカでもない。


全くもって正しいじゃないか・・・


どの評価もそれはそれで正しい。


ただ、その中で誰一人として、

僕を知る者などいないという点において、

非常に残念に思う。


だから、よい評価も悪い評価も自分にとっては、全く同列だ。

真実を知る者にとって、

小さな嘘も大きな嘘も、

嘘であることに変わりはないのだから・・・。

続・ガストロノミーの未来

以前に書いた【ガストロノミーの未来】から一年半ほど経過して、

今思うこと・・・。


フードロス?

環境破壊?

人口爆発??


どうだろう・・・


・・・


改めて考えてみている。


我々は所詮、100年程度の尺度でしか、ものを見ていない。

そして、殆どの生物は、その瞬間に生きているに過ぎない。

人間にしても、過去を振り返ったり、歴史を紐解いてみたり、

また、未来を想像したり、未来に生きる人々の為に何か残そうと考えてみたり・・

そんな風に思考の中で時空を超えたりすることがあったとしても、

今日、明日を生きることで精一杯なのが現実である。

自分の人生を全うすること。

生物として、それ以上のミッションはあるのだろうか??


・・・


そう考え着いてしまうと、

以前書いた自分の記事に疑問を感じる。


【今を精一杯生きる】


ここに答えがあるじゃないか・・・

 


皆が誠実に今を精一杯に生きさえすれば、

もしかしたら、様々な問題も解消するかもしれない。

【生き方】だけが問題ではあるが・・・

 

・・・

 

この言葉も自分的には幾分、違和感がある・・・。

果たして【精一杯】という表現が正しいのか?

生きるという行為に、

精一杯という言葉が必要なのか?


・・・


話を戻そう・・・


先に挙げた未来の地球が抱える問題。

今の自分的には、それは【未来の人が考えるべき問題】である。

それが結論だ。


何故今そう思うかというと、

そうしたサイクルは、今に始まったことではないと痛感したからだ。


その時代、その時代で人間やその他生物は、

その瞬間を生きてきたにすぎない。


変化する環境に応じて、自己を守り子孫を残してきた、

利己的遺伝子なわけで、

まずは、自分である。

それは、本能だ。

今の地球環境を作ってしまったのは【誰?】・・・と言っても、

誰でもなく、また全てである・・と言える。

要するに、誰でもないが、全ての人にその責任がある。


しかし、それは【人間】という【種】が持ち合わせた【本能】だ。


それは、避けがたい・・・。


善も悪もなく、

ただ、ひたすらに人は、今の環境を作ってしまったに過ぎない。

その瞬間に生きた我々だけが、罪を背負っているわけではない。

今に繋がる歴史が脈々と過去から現在に流れているのである。


【このままじゃ、200年後の地球が危ない!】

と警鐘を鳴らしていた人たちが200年前にいたかもしれないが、

大きなウネリの中では、もうどうることもできない。

それが【自然の摂理】だと思う。


この46億年の地球の歴史の中で、

何万回と様々な環境変化があり、

生物の9割が死滅するような大惨事も何度もあった。


・・・

今に生きる我々が未来の環境や未来に生きる人々を憂う気持ちは、非常に尊いが、

それはそれである。

感じ、思うことは大切なことであるが、

それは生きる上での本質ではない。

やはり我々のミッションは【今、この瞬間を生きること】でしかないと思う。


・・・

自分は、未来に生きる人々の為に何ができるだろうか?と言って、

今の自分の人生を犠牲にし、何かの活動をしている人がいるなら、

それは本末転倒である。

その行為は、単純に自分に酔いしれているだけであり、

自己満足に過ぎない。

それは、あまりに無知だ・・・。

自然というものを知らなすぎる。

自然の摂理というものは、

そんなに簡単に変えることができるはずがないし、

そして、それほどヤワじゃない。


もし、自然という個体があったとして、

言葉がしゃべれるならこう言うだろう。

【オマエなんかに心配されたくねーよっ。何を勘違いしてるの?

あなたは、一体ナニ様のつもり?

そんな暇あったら、自分のことを大切して生きろよ!】

そういうに決まってます。


オゾン層が破壊されようが、

人間が100億人を超えようが、

自然全体でみると、

よくある小さな変化のひとつです。


だから、楽観視していいじゃん・・っていう話ではないです。

どの時代に生きる人々も必死に生きているということ。

その時代、その時代で抱える問題があるということ。

我々は、過去でも未来でもなく、

【今を生きている】ということ。

 

過去から引き継がれた【財産】もあれば、負の遺産もある・・・


そういうバランスの中で、

その時代に生きる【生命体】は、己の一生を全うする。


単純にそれだけのことに今は思えます。

 

だから、僕は、今・・この瞬間の中を生きているのです。

絵具



僕にとって、素材は、絵具だ。


僕は、どんな絵具でも描くことが出来る。


そこにある普通の絵具で自分の世界をさっと描く・・・。





僕にとって、素材は、絵具だ。


僕は、最高の品質の絵具にこだわる。


どうせ使うなら、最高の絵具で描きたい。


質感や発色が全然違う。


本物にしかない輝きがそこにある。





だけど、僕はその時、その瞬間を描きたい。


だから、結局は、絵具はなんでもいい。


その時の思いだけが重要だ。




どんなに素晴らしい絵具がそこにあったとして、


思いがないなら、何も描けない。





僕にとって、素材は、そういうものだ。











 
タッチ
つい最近、鮮明に感じたことがある。

それは、料理における“タッチ”である。


よく筆のタッチがどうの・・という言葉を使うが、

料理にもタッチがある。

ソースやピュレなんかを置く動作である。


この動作は、味云々ではなく、

所謂、感覚的なセンスであり、

その時代性を強く反映する要素だ。


一昔前の料理をみると、

やはりタッチが古臭い。

古臭い・・ならまだしも、

目を塞ぎたくなるようなダサ過ぎるタッチが多い。


カッコイイと思ってやっているのが

ミエミエのタッチほど、ダサさが際立つ。


・・

この数年、人工的なタッチがなんだか気になっていた。

もうこういうのは、表情がモダンなだけで、

古臭いかな?と・・・


そして、あまりに多くの人がやり過ぎてしまってて、

最近では、飽き飽きしている感じがある。

・・

タッチだけでいうと、

最近、1500×750という大きなガラスの皿に

様々なピュレを使って、即興で描いてみたが、

時間に耐えうる表現をしようと思うと、

従来の皿に行うようなタッチでは、如何せん通用しないというか、

とても違和感を感じてしまった。


もっと大胆に、

もっと自然に、

動作のスピード感がマチエールにまで伝わるような・・

そういう表情を画面に作っていかないと

作品として成り立たない感じがした。


そう、それこそが出力する意味だ。


こういう感性は、

一度、外に出してみないと

大きな気づきに繋がらない。




タッチの表情に関しては、

ここ数年、自分のパターンにも飽き飽きしてて、

もっと先に進みたいけど、

なかなか見い出せずにいた・・・。




15年ほど前に、油彩用のパレットナイフで

野菜のピュレを伸ばすタッチをその時初めてやって、

暫く続けていたが、その時は“これはいいな・・”という手ごたえがあった。


当時、誰もやってなかったし、きっと誰も着目してなかった。

また、新しいという感覚的なことだけじゃなく、

古びない普遍的なタッチだとも感じた。


写真はないか?と探したが・・あった。




うん・・やっぱりダサいな・・(笑




全体的に料理として、アウトだが、

当時を考えると、2000年そこそこなので、許してあげよう・・・。




でも、これは自分にとって、

記録であり、当時を切りとったスナップなので、

とても重要な記録だ。


イメージにあったものを出力したことで、

次の表現に繋がったのは確かなのだから・・・。





最近、別のことを集中して考えていると、

こういうビジュアル的なことに無頓着にもなる。


別と言うのは、勿論・・味のことでもあるし、

もっと外側の表現だったり・・・




ピンポイントでタッチのことだけを集中して考えることが最近なかったが、

今回のマチエールを生かす料理に取り組んだことで、

もっと違うタッチがあるように思えた。


15年前の当時は、料理に油彩用のパレットを使うこと自体が斬新だったが、

今は、特に斬新でもない・・・


筆や刷毛を使うもの・・・まぁ普通かな?




何かが飛び散ったようなのも、全然ふつう・・・

とっくの昔にやったことだ。


そこだけフォーカスすること自体がナンセンスだが、

それはそれとして、

自分なりのオリジナルで、

次の新しい表情を画面に創りたい。


そこで、根本的なことからもう一度考える・・


野菜やフルーツのピュレを皿に盛るタイプの料理は、

まだまだ続くと思う。

それは、意味のあることだからだ・・・

だとすると、この先も多くのシェフが

ピュレを皿に置く作業を繰り返す。

その都度、何万人というシェフが、

もっと新しい置き方はないか?

新しいタッチはないだろうか?

と考えているはずだ。




現場では、どの店も基本的に

ピュレを何かしらの容器に入れて、

キュイエールを差し込む。


キュイエールでピュレを掬って、

皿の上でどうにかする・・


ここまでは、一緒だ。


変な道具があるにせよ、

色々やっているうちに、

やはり、スプーンに落ち着く。


スプーン以外の道具で、

長く使っても飽きない道具があれば、

料理業界全体に

新しいタッチが生まれるとは思うが、

そうそう無いから、

ワンパターンなのだろう・・・




ピュレ以外に、ソース的なものを流す上でも、

スプーンが常備されているのが利便性から言っても通常なので、

なかなかどうして代わりがない。


じゃー・・30年前の料理は??


やっぱり、今とは随分違うじゃないか。


同じスプーンを使っても、

皿に対する構図、配置、動作、量・・

全てが違う。




ということは、

30年後の未来でも違うはずだ。


そう考えると、

私は、今・・30年後のスタイルを見つけたいと思ってしまう。




そうだなー・・・

まず、量が問題だ。


最近思うのは、量が多いかもしれない。

ソースは不要なので、いらないとして、

ピュレ系なんかも、今の1/5ぐらいが主流かもしれない。


昔は、こんなにベターっとピュレを皿に置いてたんだねー・・ダサーい。

みたいな感じかもしれない。


耳かきスプーンぐらいな量が妥当かもしれない。


そう考えると、耳かきぐらいのスプーンが厨房のビーカーに

沢山、常備されている感じかな?




きっと、そうなるだろう未来を感じて、

3年ほど前から耳かきスプーンは買ってある。




未来の料理は、よりピュアなエッセンスだけを抽出したような、

香と風味だけが生き生きとしたものが主流になるはずだ。


犒擇″という定義は、

時代と共に、変化し続けるものである。










 
清潔感


清潔感という言葉がある。


よく耳にする言葉だが、

あまり意識して使ったことも聞いたこともない。




それは、文字通り、

それ以上でもそれ以下でもない。

そのままの意味しか持ちあわせていない言葉なので、

特に意識的に特別な意味を含ませて使用しないからだ・・


・・


ここ数カ月の間に、

この清潔感という言葉に対して、

2回、立ち止った。




ひとつは、

9歳の娘が、【お父さんの好きなところは?】と聞かれた際に、

【清潔感があるところ】・・・と答えたらしい。




相当に微妙な部分を褒められて、

複雑な気持ちになった。


父親に対して、ピンポイントでソコっ?・・と思う・・・。


まったく意識していない部分だったので、

余計にそう思った。


もうひとつは、画家の先生が食事に来た時。


石井さんの表現には、清潔感があるね。・・と。


清潔感??


料理の表現、ビジュアルの世界、構図や配色、ディテール部分・・

そういう画面に対しての評価で、清潔感・・というフレーズ?


なんだか、ハッとした。


自分では、全く意識の無かったことであったが、

実は、その瞬間、とてもその意味が分かってしまった。


ずっと前から、なんとなく感じていたこと。

そう、別に汚れているとか、そういうことじゃなく、

なんとなく、表現が汚いと感じる人がいることを・・・




実際、奥底で感じはいるけど、

言葉では言わなかったこと。


・・・


【美しい表現】というのは、そのままだけど、

【清潔感のある表現】というのは、似ているが少しニュアンスが違う。


勿論、内包しているのだが、

やっぱり、ニュアンスが違う。


この誰もが分からないかもしれない感覚的な言葉選択が、

画家の先生に言われたときに、ピンときて、

何かとても嬉しい気分になった。


そこに気づけたことと、

それが自分の表現であったことと、

どちらも嬉しかったのだろう。


・・・


人にとっての清潔感とは、

何もキレイ好きだとか、潔癖症だとか、

そういうことじゃない。


キレイに、ものを見つめる感性なんだと思う。


表現とは、表に現れると書いて【表現】という言葉になる・・

故に、何かが【表】に現れて、はじめて表現となる。


その【何か】とは、何か?

それは、自分自身の中に内在するものだ。


内に何を抱えているのか?


それは、精神の純粋性以外にない。


それが、全てだと僕は思う。
神は細部に宿る
この言葉の本来の意味は、

あらゆる芸術で優先されるのはいつでも作品【全体】の価値である。

しかし、【細部】の集合体が【全体】を構成しているのだから、

素晴らしい作品というのは、

構成するディテール部分、ひとつひとつが完璧なものでない限り、

全体像としての【作品】が完璧にはなり得ない。




前衛建築家のミース・ファンデルローエ・・

或いは、美術理論家のヴァールブルクが言った言葉とされています。

 

要約すると、

「細かなディテールを疎かにしては全体の美しさは得られない」

「細かくこだわった細部こそが作品の本質を決める」




そんなところでしょうか・・。




自分的には、もう少し先の解釈がある。


それは、自分の感覚的なものであるし、

自分がモノ作りをして、リアルに感じる言葉だ。




神は細部に宿る・・・その細部は、

実は、目には見えない。




別に、具体的な細かい仕事ではない。


勿論、もの作りをする上で、

誰も気にしないような実に細かい部分まで、

徹底した作品というのは、

絵画やデザイン、映画、音楽・・なんでもあらゆる表現物において、

【神が細部に宿ったな・・・】と実感するし、

それゆえ、素晴らしい出来栄えとなるのだが、

そうした具体的なこだわり部分を

構成しているのは、

テクニックや手先の器用さが創りだしているものではなく、

深い精神性から細部に【繋がり】を与えているように思える。




精神性の矛先が、たまたま細部に宿るだけであって、

細かい部分の細工が素晴らしいこととは違う。


誰も気にしないような部分に、何故そこまで執念を燃やせるのか?


まさに、そこの理由の中にこそ、精神が宿るわけであって、

精神が宿ることを神が宿ると言い換えているにすぎない。


だから、見た目が同じように完璧であったとしても、

張りぼてと本物は、何か違う?と感じるのは、

そこに精神があるかマネごとなのかの違いだ。


だから、実に細かい細部にまで作業が施されているからといって、

神が宿っているわけではない。


ココロという目に見えない物質は、

ある種のエネルギーを持っていて、

不思議なパワーをものに宿す。


生命力を感じる表現というのは、

そういうものであって、

言葉では説明がつかないオーラを放っている。


それを感じた時に、言葉で説明がつかないからこそ、

【神が宿っている】という言葉を用いる・・・




僕は、そう思っている。

 
振り子




僕は、振り子そのものだ。


光と闇を行ったり来たりの人生だった・・・




人は皆、振り子のように

揺れ動き、

いいことも悪いことも起きる。


いいことも悪いことも起きるというより、

実は、その全ての原因は自分自身にある。


僕は、きっとソコに対して、

とても敏感なんだろうと思う。


・・


僕は、どう考えてもいい人ではない。

立派な人でもないし、

自信もない。


成功者でも勝者でもない。


・・


僕は、振り子そのものだ。




善と悪、

光と闇、

表と裏、




いつも振り子のように

行ったり来たりを繰り返す。




僕が抱える悪も闇も裏も・・・

とても深い。


それは、自分ではどうすることもできない。


だから、そこからどうにか抜け出して、

自分を浄化するために、

僕は生きているのかもしれない。





・・


だから、僕は、

何かを伝えるにも、

表現をするにも、

コントラストを描こうとしてしまう・・・




闇の無い表現に僕の心が揺れ動くことはない。


ただ美しいだけの言葉や

ただキレイ事を並べた詩に、

何も感じることはない。


でも、きっとその作品は素晴らしいのかもしれない・・・


ただ、素晴らしいからといって、

僕が受け入れることが出来るかどうかは全く別の話しだ。


・・


負の感情を持たない人なんているのだろうか?




僕には、分からない・・・

もしかしたら存在するのかもしれない。


僕は、振り子のような人生の中で、

光と闇を掴み、

そして、そのコントラストを描く。

それしか出来ない。


だからこそ、

出来る表現だってある。


僕は、僕の人生の中でそれを描き続ければいい。
見つめる先に在るもの






今、長年封印していた絵画と陶芸をはじめた。

封印といっても、

やっていたわけではない。

ずっとやりたいことであったが、

もし、取り組んでしまうと仕事が手につかなることが分かっていたので、

そういう意味で自分の中では封印していた。

・・

しかし、ここにきて二つ同時に始めるとは想像していなかった。

やるにしても、どちらかひとつから始めるものだと思っていたのだ・・

実際にやってみると、

予想通りの部分と

予想を越える部分とが二つ見えてくる。


予想を越える部分にこそ、

人生の面白さが隠されているように思う。


何事も同じだ。


人は経験を積むにつれ、

色々なことが具体的に想像できるようになっていくが、

しかしながら、

どんなに経験を積んでもなお、

想像しきれないことが必ずある。


それこそが次のステージに上がる為の経験であったりする。


それは、絶対にやったことのある人にしか見えてこない世界だ。

そして、その先には、

やり続けた人にしか見えてこない世界も待っている。


僕は、料理同様に、

その【やり続けた人にしか見えてこない景色】を見たいと思う。


・・・

今、料理という仕事をしながら、

絵画と陶芸を真剣にやっている。

これは、想像通り・・とてつもないエネルギーを使う。

そして、この3つは僕にとってハッキリと重なる部分と、

全く異なる部分が存在する。

その世界にしか無い特有の要素がきちんと存在することを知る。

そして、同時にどの世界でも同じことも言える。

モノを作る。

モノを表現する。

モノを創造する。

これらは、僕の中では出力された結果が異なるだけで、

その本質にあるものは同じだ。


僕が24年やってきた料理という世界のベースが自分にあることは、

ひとつの土台になる。

それは、物事を習得するプロセスにおいて

大きなヒントだ。


自分が何もできない状態から独学で

料理のメソッドを習得してきたプロセスは、

間違えなく自分の中に備わっているからだ。


それは、自分自身で日々考え、失敗し、その自分と向き合い、

そして、その作業を継続してきたからだ。







・・・


継続の中でしか、絶対に見えない世界がある。

それは、料理の中で学んだ。

そして、それは現在進行形であり、

今も尚、学びの途中である。




絵画や陶芸は、僕にとって掛け替えのない表現ツールになりつつある。

観賞する側に甘んじてきたこの数十年であったが、

ここにきて、表現する側のスタートラインにやっと立つことが出来た。

それは、誰でもなく

この自分にとって、

幸福であることに間違えない。


それほどまでに、自分が長年求めていた世界だからだ。


その世界というのは、

別に、絵画や陶芸のプロの世界という意味とは違う。

継続の先に、後付けでそういう現象があり得たとしても、

それは、自分にとって二次要素であり、またどうでもいいことである。


求めていた世界とは、

その制作の中にある精神世界だ。


これは、なかなか料理の中では味わい切れなかった感覚である。


静寂の中、一人きり

無の世界と向き合い、

自分の中にしかない世界を見つめる作業。


この状態は、何とも言えない感覚がある。


恍惚感? 喜び? 幸福?


なんだろうか??


今の僕には、既存の言葉は見つけることができないが、

これほどまでに、この新しい世界に浸っている状態が

自分にとってしっくりとくる感覚を他で見つけられない。




それに近い状態を料理の中で何度も作り上げようとしてきた24年であったが、

それは、現実的になかなか難しい。

そして、それが何故難しいことであるのかを

ここで説明することが非常に面倒なほど、

自分の中でハッキリと多くの理由が存在している。




・・・


僕の今回の取り組みの中で、

10年先のヴィジョンが明確になってきた。

僕が何を手にしたいのか。

どこに進もうとしているのか。


僕は、自分の心の中に今、それをハッキリと描き始めている。


しかし、この二つの世界というのは、非常に難解で、

料理同様に、生涯続けられたとしても、

その真髄を知ることができないままかもしれない。


今、3つのジャンルの中で、自分の思考回路が、

様々な表現様式に迷路のように絡み合っている状態で、

言葉として出力するには、相当に早い段階ではあるが、

こうした状態の今を記録しておくことも大切だと自分は思う。




それは、まさに今を切りとったスナップ写真そのものである。


文書にしても、作品にしても、

自分の場合は、全て未完成なまま終わる。


成長し続けている状態において、

作品は、その時その瞬間を切りとったスナップであり、過程にすぎない。

完成した段階は、単純に切り上げただけであり、

それで終わりということではない。


ひとつの作品を作る過程で、

今まで知り得なかった“気づき”が間違えなく自分の中にあるわけで、

その時点で既に今作っているその作品に着手し始めた自分を超えている。

それは、もう今作っていながらにして、既に過去のモノとなっている。




キャリアを積めば積むほどに、その気づきのスピード感は落ちてくるとは思うが、

今、これだけの多様な表現に向き合い始めると、

初期段階なのも手伝ってか、物凄いスピードで日々景色が変わって見えるのが分かる。


そして、これをマルチタスクのように

多様なジャンルの思考を行ったり来たりしながらも、

10年、20年、30年と積み上げた後、

僕は、きっとこう思うはずだ・・・。




全ての道はひとつであると。




そして、今やっている基礎的な技術や知識が、

なんら必要となくなり、

表現における【芯】の部分だけが残るようなイメージを持っている。




しかし、その一本の【芯】を表現する為には、

多くの【無駄】が必要であることも知っている。

結果、人生において、無駄なことはひとつもない。


また、表現という世界において、

最後に残る【芯】の部分とは、丸裸にされた自分そのものであり、

その自分の中に【芯】があるかどうかで決まるような気がする。


それは、ある種【哲学】のようなもので、

哲学のない人は、色々な知識や技術を身に付けたとしても、

最後には、何も残らない。




よいものを作ろうとするなら、

やはり、自分の中にあるものを見つめ続け、

悩み続けるほか答えは、ないように思う。




今、自分はその真っ只中に生きているが、

しみじみと幸福を感じている・・・