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愚行録

ここ最近、楽茶碗に嵌っている。

色々な茶碗があるが、今の自分の好みとして、

楽茶碗が持つ、独自の世界にどうにも惹かれる。

詰まる所、利休であり、長次郎なのだと思うが、

当代、樂吉左衛門さんの作品は、凄い・・・

これもまた、まだ陶芸を始めて2年の今の自分が‥と前置きが必要だが、

今の自分が思うに、楽家450年の歴史を見ても、

当代の作品は、楽茶碗の枠をギリギリ保ちつつも、

そこを踏み越えている・・ような禁断の領域に迫る緊張感がある。

職人としての域を超えた芸術家としての性分がそうさせたような・・

自分では制御できない熱量を感じずにいられない。

そして、氏の作品をずっと眺めていると、

その意識は、光悦の作品に重なってくる。

僕は、素人で、何も知らない状態なので、そう感じるだけかと思い、

ネットで繋がりを調べてみた。

【15代 樂 吉左衛門 本阿弥光悦】で検索・・

すると、出たばかりの【光悦考】 著 樂吉左衛門 という本があった。

そっか・・・この世界の人にとって、

この二人の意識が繋がっていることは、承知のことで、

誰もが知っていることだったんだな・・と。

・・

樂歴代の茶碗を初代長次郎から現在に至る15代まで、ずっと眺めていると、

間違えなく、光悦のところで目線が止まる。

本阿弥光悦は、楽家の中にはおらず、2代目と3代目が存命中に

楽家とごく親しい関係で、出入りしていた、当時の総合芸術家だ。

光悦の作品は、とにかく自由に満ちており、

その淀みない表現力は、無垢で可憐で美しい・・・

造形を創り上げる感性は、

内に籠るようなエネルギーから来るものではなく、

外に向かって解き放たれるような精神から

生まれたものに思える。

まさに【天賦の才】

その言葉に尽きる・・・

・・

ここまで書いて、

どうにも、この生意気な自分の文書表現に嫌気が刺しつつ・・

愚行と知りながらも、言葉を続けさせてもらうが、

かくにも、この本阿弥光悦(ほんあみ こうえつ)という人物は、

当時のあらゆる芸術において、全て超一流であったのだから、

その才能たるや同時期にイタリア・ルネサンスで活躍した

レオナルド・ダ・ビンチに重ねてしまう人も多いだろう。

さて、そんな光悦の話を【光悦考】という1冊の本に吉左衛門さんが纏めるにあたって、

度々、文書の中で登場する人物が【林屋晴三】という方だ。

日本陶芸界の重鎮にして、その名は知らない人がいない・・という大先生らしい。

僕ごときが、どれだけの経歴で、どれだけ凄い人なのかを解説するのは、

あまりに恥ずかしいので、端折るが、

この本の中で、吉左衛門さんが、この林屋先生への敬意と愛情がたっぷりと描かれている。

師弟愛、親子愛にも似た・・また、それとも異なる、

なんとも言い難い関係だったと想像するが、

随所に様々な言葉で氏との関わり合いが綴られており、

この【光悦考】という本自体が、林屋先生に贈る最後の言葉だったのかな・・とも想像してしまった。

そして、本来は、光悦研究の第一人者でもある氏が、

【光悦論】を、人生の最後に自身の集大成として世に送り出すべきと考えていたのだろう。

無念にも、林屋先生は、昨年2017年の4月に他界されたらしい・・・

??

待てよ・・・

もしかして・・・

そう言えば、2016年の夏に、日本陶芸界の重鎮の先生がうちの店に来ると、

連絡があったじゃないか。

ミュゼのオープン以来、ショープレートを飾ってくださっている、

陶芸家 中村裕先生が食事に連れて来られた方じゃないのか?・・・

そう思い、当時のメールを見ると、【林屋晴三先生と行きます】と書いてあった。

まことに・・・

当時は、全くといっていいほど、その世界のことが分かっておらず、

90歳近いご高齢の先生・・が来たな・・ぐらいにしか、認識していなかった自分。

なんとも、愚かしいではないかっ・・。

そして、ミュゼに来ていただいた、その1年後に亡くなっている。

たったの2年前の話であることが、余計に愚かしいとも思ってしまう。

もし、あの頃の自分がたとえ今レベルの知識であったとしても、

その【縁】は【縁】として、

自分の人生の中に確かな【縁】として残ったのだはないだろうか?

・・・

しかし、不思議な縁として、

2年経った今、こうして【光悦】を知ることで、

改めて【林屋先生】の存在を認識することが出来た。
もし、今お会いすることが出来たなら、

無理やりにでも時間を作り、

どうにかして、少しでも有難いお話を覗うことができたのになぁ・・と

後悔の念は拭えない。

この自分の文書自体が、愚行そのものでもあるが、

これら含め【愚行録】をここに記す。
自分の中に在るもの
先日、専門料理の取材依頼を受けた。

内容は、お任せコースの全容。

この企画は、前にもあったもので、

今回で3回目。

最初が、今旬の若手料理人が中心のもので、

次が、35歳以下の料理人。

今回が、我々団塊ジュニア世代で、

25年のキャリアで、円熟味を増した世代。

・・と言っても、自分が円熟期に入ったのかというと、

今、入り口にやっと立った感じもするのが正直なところ。

モノ作りは、何事もやり続けると、更に奥が見えてしまい、

今の自分の位置に愕然としたりするものだ。

・・

あまり他人に興味がない自分でも、

プロとして最低限、専門誌やsnsを通して

【今の流行り】は、把握している。

同時に、この先何処に向かうのか?ということも考えるし、

今の若手の実力にも関心する。

今を感じさせる勢いという部分においては、敵わない感じもある。

それは、世代差でもあるし、やはり新しい時代というのが、

もう来てて、その中心は、今の20代、30代だろう・・

では、そこで今の自分が何を作るのか?を考えてみる。

張り合って、今っぽいものを作るのか?

それとも、自分たちが見てきた時代を今風に再構築するのか?

または、もう一度リセットして、今感じているものを自然に表現するのか?

そう考えると、一番最後の考え方が潔いとも思うけど、

実際には、これら全てのミックスというのが、正直なところだと思う。

その中で、どんな今、どんな自分を皿の上で表現できるのか?というのがポイントだ。

これは、時代とか世代とかよりも、自分の場合は、

とても個人的なことに由来していると思う。

僕は、そもそもが独学だし、キャリアひとつ取っても、独特だ。

いいか悪いかは別として、自分は24歳でシェフになり、

駄作を20年もの間、量産してきた・・

そういう意味では、料理における自分の表現というものに、

飽きているというか、感覚が疲れているような部分もある。

長い間、ずっと吐き出し続けるいると、

ある時期に、それら全ての過去の作品が嫌になってもくる。

また、手掛けてみたい!と思えるような作品が殆どない。

その瞬間、その瞬間を追いかけてきて、

感覚的にその時、面白いと思えることをずっとやってきたわけだから、

そろそろ、もっと本質的な料理に向き合ってもいいころかな?と思ったりする。

多分今は、次の新しい世界に向かう狭間にいて、

自分の中での【スタンダード】を確立しつつ、

少しずつ新しい扉も開こうとしている最中だと思う。

ただ、昔のような思い切りというか、勢いはなく、

もっと、じっくりと考えて、構えている感じはしている。

かつての自分は、スペシャリテなんていらない・・と思っていたし、

自分には作れない・・というか、性格的に向いてないと思っていた。

自分の料理は、スナップ写真でいい・・と。

それは、毎日移り変わる【自分そのものを移す鏡】みたいなものだ。

それが、僕の料理・・だと思っていた。

でも、最近思うことは、やっぱり表現者であるなら、

ひとつでもいいから【残る作品】も創り出したい・・という思うも強くなってきた。

もっと言うと、【作品】と言えるレベルの完成度のものをこれからは、

作っていかないといけないと思うようになった・・
僕は、そもそも、寸分の狂いもなく、

完璧を追求した作品にあまり惹かれるタイプじゃない。

なにか、こう・・余白というか、隙というか、

そういう【ゆらぎ】のようなものがないものって、

見ててつまらないと思う。

それは、料理も同様に、完全無欠の料理は、素晴らしいとは思うけど、

同時につまらない・・という感覚もある。

それは、僕の個人的な好みの問題だと思うけど、

それこそが、僕の個性であるなら、

それが自分らしさだと思う。

じゃ、今、そういう感性を持つ自分が、

どういうものを良しとして、完成度の高い作品を作るのか?というと、

とても、矛盾を感じる。

その自己矛盾との葛藤の中で、生み出されるいる今の料理というのも、

ある意味、スナップ写真だ。

結局のところ、僕は完成に辿り着けない・・・。

そういう、ある種、混沌とした意識の中で、

今を描くしかない・・。

・・

具体的な話に移ると、今作る料理は、出来るだけピュアで本質的に美味しいと

思うものが多い。

何故かというと、今のムーヴメントがその逆を行っているから。

僕は、根っからのアマノジャクなので、人がしている後を追いかけたくない。

出来るだけ、人と違う道に進みたい。

これは、矛盾と悪あがきの両方でもあるけど、

意図せず、今の自分がそういう方向を求めたように思う。

今若い世代が創り出している料理のスタイルを冷静に見た時、

いつくかの考え方、何人かのシェフは、残るだろうけど、

それ以外は、淘汰される。

最終的には、本質的なものしか残らない。

それは、ものの考えであり、素材のピュアな味わいであり、

テクニックも理に適ったものしか、残らないと思う。

しかし、誤解されると困るので、説明すると、

時代を進化させるためには、絶対に淘汰されるものにも同様の価値があるということ。

その競争原理があってこそ、本物が生まれるし、それが残るのだから、

いずれ淘汰されるとしても、そこで生まれた様々な無駄や駄作は、実は無駄ではなく、

次に進むための重要なエネルギーだと思う。

我々は、既にその時期を経験して、通過してきた世代。

そして、どうにか生き残った世代でもある。

ここ数年、新北欧料理の影響で、発酵が注目され、

今のガストロノミーにおいても、

ひとつのムーヴメントになっている。

まさに、これなんかが、先のいい例で、

若い世代が、北欧で修行して、ある種の熱量を持って、

自分ならではの解釈で、面白い発酵料理を作り始める。

当然、いろいろな人がやる中で、

おかしな料理も沢山、世に出てくると思う。

それを見て、我々の世代が、よくない!と指摘すること自体がよくない。

僕の考えとしては、自分の中にはリアリティーがないので、

やらないけど、そういう挑戦を見て、実にいいなぁーと感じる。

だって、もしかしたら、その中で、誰かが発見した凄い発酵料理が

この先の未来に、スタンダードな技術として継承される可能性だってあるわけで。

その挑戦の連続こそが、新しい未来を常に拓いてきたと思う。

だから、同時に多くの無駄と駄作も必要なわけだ。

それなしに、いきなり100年以上も持ちこたえられるような

本質的な発見など、生まれるはずもない。

【ひとつの発見】というのは、多くの犠牲の上に成り立っているということだ。

・・

自分には、リアリティーがないので、やらない。・・と言ったが、

これは、発酵だけのことではない。

発酵に関しては、別の問題として、僕の好みとして、

フレッシュ感のある味覚が好きだからやらない・・という考えもあるし、

今の時代の恩恵として、流通や保存技術が高度になり、

瑞々しい新鮮な食材が手に入る世の中で、

わざわざ、ピュアじゃない味を作り出すことにあまり意味を感じていないのも理由だ。

これは、否定ではなく、あくまで個人の考えと嗜好の問題。

長い人類の食の歴史の中で、

発酵や熟成を最大限に利用し世界中の人が

【スタンダードな美味しさ】として評価されたものは、

ワインとチーズと生ハムぐらいだろう。

それ以外にも、多くの発酵食品もあるが、

民族間の中で、留まっているものが殆どだ。

それらに比べ、ワイン、チーズ、生ハムは、

加工前の素材の味わいを遙かに凌駕する美味しさと

世界基準の味覚として固有の価値がある。

我々、日本人が誇る、味噌、醤油などが代表とする、独自の発酵文化があるが、

たとえ素晴らしい発明であっても、

今の時点では、世界のスタンダードには及ばない。

しかし、この先に未来は、よりグローバル化された味覚が、

民族や国境の垣根を越え、様々な味覚の融合がなされるであろう。

それは、また別の話だが・・・

・・

話が逸れてしまったが、リアリティーの話に戻すと、

僕は、自分の中にないものは描けない・・という感覚がとても強く、

それは、他のシェフよりも強烈にあるように思う。

最近も、京都で知り合った人から素晴らしいタケノコを送ってもらっているが、

やっぱり、何処か自分の中でリアリティーがない・・

何度か料理を作っているうちに、手が付けられなくなってくる。

この感覚は、どう説明すればいいのか分からないが、

自分の中にないもの・・・という言葉でしか説明しようがない。

同様に、甘鯛やノドグロなんかも同じだし、ホタルイカも同じ感覚だった。

他の店で食べて、感動したり、地元にないものなので、

興味本位で使ってみたり、純粋に食材として素晴らしいので、

使いたいと思ったり、理由は様々だが、

感覚的に、自分の中にないな・・と感じてしまうと、

1度きりで、もう使わなくなってしまう。

これは、僕と料理の関係が、単に仕事として捉えているものじゃないからだと思う。

例え、素晴らしい食材で、とても美味しい料理が作れたとしても、

自分の中にないものは、自分の料理じゃない。

自分の料理じゃないもので感動されても、実はあまり実感が沸かない。

そういうことを繰り返すうちに、使う食材がどんどん限られてきて、

ワンパターンになり、嫌気が刺す。

だから、また懲りずに真新しい食材に手を出しては・・・を繰り返し、

やっぱりやめようと思う。

自分の作品として、残せるものをもっと深く追求したい・・というのが、

今の率直な思いだ。

突き詰めると、やはりシンプルなものが増えてきてしまう。

味覚センスの問題だとも思うけど、

とてもシンプルな調理法と素材だけの料理は、

作り手の思考が浅いと、ただの旨いもの屋か高級居酒屋みたいになってしまうけど、

色々なプロセスを経て、そこに辿り着いたものには、

品が備わっていると思う。

これは、精神論なんかじゃなく、そういう料理には、

その素材だけで、十分に複雑で奥行きのある味わいがあり、

僕には、そちらのほうがよほど強烈な感動に繋がる。

究極の食材である必要もなくて、

ごくありふれた普通の食材でも、よく吟味し、適切な処理をして、

最高のタイミングを図れば、見事な料理になる。

僕は、基本的にずっとそういう料理を追いかけながら、

飽きないように、たまに刺激的な冒険をする・・それぐらいのバランスが丁度良い。

・・

結局のところ、人は何か表現するとき、自分にないものなんて、

はじめから形にできるはずもないし、そういう欲求も沸かないものだと思う。

そこは、ビジネスとして流行りの商業音楽を量産して沢山お金儲けができる人と、

自分の中にあるものを表現して音楽を作る芸術家との違いと同じで、

僕は、無理して前者にもなれるが、後者としてしか生きられない性だと思う。

ただ、自分の中にリアリティーがあるからといって、それが売れるとは限らない。

埋もれるだけのものもあるだろうし、センスの悪いものは、ただの自己満足で終わる。

感覚的に価値があって、同時に身近な【通訳者】がいる人は、売れるかもしれない。

また、それも運だろうし、時代とのマッチングでもある。

好きな表現を振り切ってして最後までそれを貫き通せるなら、

僕は、そんな生き方でいいとも思う。

料理は、そういう意味でひとつの自己表現であるし、生きる糧でもある。

ちなみに、余談だが、

リアリティーのある作品って、

かつてピカソが言ったように、【君にパイプを加えた男の絵は描けない、
何故なら、君はパイプを吸ったことがないからだ】の言葉が印象的だ。

恋をしたことのない人が、恋愛小説を書けないのと同じで、

僕は、自分の人生の中に無いものは、

やはり自分の色として使いこなすことが難しい。
・・

具体的な料理の話をすると、

大胆で新しい組み合わせの料理は、

それほど日本人の特性に合わない気がしている。

それは、食べる側も作る側も、両方に言える。

そういうタイプの料理は、欧米人のほうが上手だ。

今の時代、世界が狭くなり、日本人でも実力さえあれば、

海外で注目を得ることが出来る。

せっかく、そういう時代が来たのだから、

不得意というか、持ち合わせてない武器で戦うよりも、

日本人の特性を生かした料理スタイルで勝負したほうが断然有利だし、

意味がある。

だから、グローバルな視野を持ちつつ、

高度で繊細なテクニックを駆使して、

素材感に溢れ、透明感のある料理を作ることが、

日本人の作るガストロノミーの未来を切り拓くように僕は思っていて、

最終的には、純度の高い料理が残ると思う。

ガストロノミーは、美食の探求だ。

優秀な日本人シェフは、あらゆるジャンルの最高峰の技術を持ちつつ、

日本料理の使いたい技術、考え方だけを抽出し、

日本料理にはない、ピュアだけど、アタックの強い美味しさを

創り出すことができる・・可能性がある。

それは、おそらく日本人以外には、難しい・・・

欧米人の調理のプロセスを見ていると、

どうにも雑なシェフが多いし、ライフワークやものの捉え方も、

我々と大きく異なる。

太い線やカラフルな色を大胆に引いて、

周りを驚かすことは得意だけど、

繊細な描写で、余白にすら意味を持たせ、

その向こう側にある余韻を感じさせるような・・

そういう感性ではない。

これは、抽象的な例え話にも聞こえるが、

僕にとっては、ごくストレートに伝えているつもりだけど、

これもまた、日本人的な感性かもしれない。

・・・

僕は今改めて自分の料理について考え直しているし、

真摯に向き合おうともしている。

ひとつの料理を作る上で、

使用するアイテムひとつひとつをより吟味し、

何処まで適切な処理をするべきか考えている。

僕の料理の中に【蝦夷アワビ】を使ったものがある。

もう、4年は続けているだろうか?

コンスタントに作る続けている料理は、アミューズの【森】という料理と

このアワビしかない。

使う材料は、4つ。

・アワビ ・塩 ・昆布 ・水

全て自分の中にある素材だけで構成されている。

この料理は、昆布出汁に切ったアワビを落として終わり。

それ以上でもそれ以下でもない。

なのに、こんなに飽きっぽい自分が、

これを作り続けられるのは、

その中に【自分】を感じ、そのシンプルな素材と工程、

最終的な味覚の世界に、意味を感じているからだろう。
料理人になって、25年。

これからの料理人生があと15年。

60歳までを目途に考えたとして、

この先の15年は、意味を重ねていきたいと思う。

その中で、若いころのようなエネルギーと視点を持って、

何か新しい扉を開くことが出来たなら、

とても有意義で幸福なことだと思う。

自分は、いくつになっても探求者でありながら、

冒険者でいたい。

チャレンジする精神の中にこそ、創造性があり、

創造性の中にだけ、表現物としての価値がある。
入り込む余地
【ゆらぎ】という言葉が好きだ。

この言葉から感じる語感として、

何か不完全な中にこそ、感性の入り込む余地が残されていて、

それによって、新たな思考が生まれるようなニュアンスを感じる。

また、自然という大きな概念で観た時に、

宇宙全体が、その【ゆらぎ】の中に存在してて、

その【不確かなもの】の中に真実みたいなものが揺れ動いているような気がする。

言葉にすると抽象的で、具体性に欠ける感じにもなるが、

間違えなく自分の中にそういうイメージが在ることは確かだ。

自己の探求や人生に対する【問い】は、そういう不確かさがあるから、

永遠に求め続けるだろうし、考え続けることが出来るように思う。

それが表面化したものが、【自己表現】なんだと思う。

それは常に【過程】だ。

“今の時点で、自分はこう考え、こう感じているんだ”ということを

外側に出した結果だと思う。

だから、常にそれは【断片的】なものだ。

その今を切り取った時の【断面】を公開しているような感じだろうか?

自分が、ずっとそう感じていることは、

何度も文書化にもしている。

特に自分にとって、新しい気づきではないが、

今、改めて書く気になったのは、

ある人物の動画を見たからだ。

それは、樂家の当主 樂 吉左衞門。

あの千利休に見い出された樂焼の初代 長次郎の末裔にあたる人だ。

今で15代目で、450年もの間、一子相伝で樂焼茶碗を継承している。

その吉左衛門さんが、長次郎の作品について語っている動画なのだが、

その語り口調はとても穏やかで、しっかりと大地に根を張ったような

ゆるぎない佇まいと本質を見続けてきた人間の悟りの境地を感じる。

彼は、先代の父親でも祖父でもなく、見つめる先にはいつも長次郎がいる・・と語っている。

“なんの変哲もない茶碗なのです・・美しい色も無い、華やかな絵柄もない、かといって

面白い造形があるわけでもない。ただそこには、なんの変哲もない茶碗が在るだけなのに、

静かに、だけど物凄いエネルギーで、世の中に問いかけているように感じるのです。

人の中にある見栄や欲、凝り固まった常識、そういうったものに対して、

問いかけをしているように思うのです。

長次郎が創った世界というか、その造形は、不完全さ、ゆらぎ・・といったもので、

この感覚、概念は西洋にはないもので、日本人固有の【美意識】だと思うのです。

そうした造形は、なんとも言えず自然の中に在って、尚、溶け込む佇まいがあり、

凛とした美しさがある。

しかし、その不完全さ、ゆらぎの中に、我々が心を動かされるものがあって、

入り込む余地が残されているように思うのです。

完全無欠のものというのは、ある意味で思考停止状態を産むように思う。

誰もが手放しで絶賛し、素晴らしい!と称えるような・・そんな完璧なものに、

感性の入り込む【余地】は無いように思うのです。

・・・

多少、自分の言葉も混ざってはいるが、

概ね、このようなことを吉左衛門さんは、語っていたのですが、

語彙の選びやその思考の深さにとても感動した。

同時に、こんな素晴らしい世界があるんだな・・とも思ったし、

陶芸をはじめて、本当に良かったなと。

もし、あの時のきっかけがなければ、

同じ動画を観ても今と同じ感覚では受け止めていないような気がする。

この世界を知らずして、死ぬのは本当に惜しい。

心からそう思った。

・・・

僕は、料理に関していえば、

出来るなら完璧を目指している。

はじめから不完全な料理を創ろうとは、思ってはいない。

今、出している料理においても、

出来る限り、日々修正を重ね、

より精度の高い作品にしたいとも思うし、

将来的には、もっともっと完成されたものを創りたいと思う。

ただ、同時に思うことは、自分が自分の料理に対して、

思考停止になることはないようにも思う。

どんなに究極的に要素を削ぎ取って純化したとしても、

何か、自分の中で付入る隙というか、修正する余地があるように思う。

それは、他人には感じられないかもしれないし、

逆に、作り手側にそういった思考があるうちは、

他者も同じように作品の伸びしろを感じるのかもしれない。

これは、ある意味、精神論にもなるが、

その作品が面白いものか? つまらないものか? を分ける【差】というのは、

作り手の思考が【生きているものなのか?】という点なんじゃないかと思う。

一度、作り手側が、“これで、これはもう完成・・”と決めてしまって、

意識の無い中で、作業として何かを作ったとする。

技術的には完璧。出来上がったものの精度も高く、不備もない。

何処から見ても、なんら遜色なく、素晴らしい出来栄えだったとしても、

そこに【意思】がない・・・。

僕は、何度かそういうものに出くわしたことがある。

・・・

【入り込む余地】というのは、

誰もが思う未完成でもなく、不備があるものでもない。

作り手が、高い志しを持って、

どれほどに完成に近づけたとしても、

まだまだ先があるんだ・・という精神が生み出している【余白】の部分に思える。

まだ見ぬ、もっと素晴らしい作品を自らが追い求める姿があるからこそ、

時代を超えても尚、観る側に入り込む余地を与え、

作者が追い求めた思考の先を見つめることが出来るのじゃないだろうか?

だから、この世に完成した芸術作品というのは、存在してなくて、

あるのは、思考を持たない工場製品だけだ。

完璧を追い求める姿も、もしかしたら自然の中に在る【美しさ】とは、違うのかもしれない。

その考え自体が、傲慢で愚かなことなのかもしれない・・・

不完全な【ひと】が完璧・・などという言葉を安易に使うべきでもないし、

求めるべきでもない。

でも、人は、やはり何かを作る以上は、【完璧】を求めてしまう。

一体、何を求めて何を目指して【カタチ】にすることが正解なのだろうか?

そう・・・そういう自己の内面にある迷いや疑問が、

僕は、大切な気がしている。

僕は、だから飽きずにもの作りを続けていける。

いつ終わるか分からない人生だけど、

死ぬまでの間に、少しは先に進みたいと思い、その過程を楽しんでいる。
根源にあるもの
思えば、子供のころ、料理人を目指したことはなかった・・・

かと言って別の職業に就きたいと思ったこともなければ、

夢を持ったり、何かに憧れたりも無かったように思う。

でも今思えば、僕は料理の道に進んで良かったんだな・・と

最近になってようやく思うことが出来た。

前にも書いたことがあるような気もするが、

料理みたいに感覚を頼りにする世界というのは、

一般的な仕事と違って、残念ながら一定の訓練を受ければ

誰でも成果が上がるものではない。

当然、やる気と努力でカバーできる部分もあるが、

そこそこにしかならない。

何が違うのか?

それは、絵心、歌心と同じで、

ピカソや美空ひばりのように、

何も訓練を受けていない子供の時点で、

パッと完成されたパフォーマンスを披露できる人がいる。

そういう人は、その世界が必要とする

【感覚】を初めから持ち合わせていて、

それぞれの世界には、そういう人が必ずいる。

そして、生まれつきのセンスがある人が、

更に人より努力もする。

そういうプロの世界において、

普通の感覚の人が、やる気と努力でカバーできても、

そこそこにしかならない。

・・・
感覚を頼りにするプロの世界というのは、

そういう厳しい現実が在るということを僕は、この仕事を始めた時から

気づいていた・・・

だから“僕は、この世界でやっていけるのだろうか?”という想いを

ずっと持ち続けていたのかもしれない。

今もその想いは、あって時々、とても不安になる。

自分が今している事、自分が作る料理、自分の存在意義・・・

代わりがいくらでもいるし、果たして意味のあることをしているのだろうか?

そんな想いがいつも頭をよぎる。

でも、それは努力が足りない自分の中に生まれる【隙】であることも自覚しているし、

どの世界に入ったとしても、生まれる感情であることも知っている。

結局は、やるしかないし、続けるしかない・・・

その循環の中にいつもいるように思う。

・・・

最近、ふと子供の頃を思い出した。

初めて作った料理のことを・・

あれは、きっと8歳か9歳ぐらいだったと思う。

普段両親は、共働きで土曜日に学校から帰ると、

いつもテーブルに500円が2枚おいてあった。

当時は、500円札かな?

で・・2歳年上の兄は、コンビニで適当なものを買って、

パッと食べて、すぐに遊びに出かけるタイプ。

僕は、最初は兄と同じようにしていたが、

そのうち、“この500円で何か、もっと美味しい食事ができないだろうか?”と

考えるようになった。

そこで、近くのスーパー・・というか、市場みたいなお店があるので、

そこで肉を買うことにした。

ここには、よく母親に連れられて来てて、毎回僕は肉屋の前で、

ショーケース越しに肉屋のおっさんの様子を眺めるのが好きだった。

うちは、貧乏だったので、夕飯に牛肉が出たことは一度もなかった。

常に豚。

母親に“牛肉が食べたい!”というと、必ず“牛肉ねぇ〜・・美味しくないよっ・・”と言う。

はじめは母の言う言葉を信じていたが、

そのうち“これは嘘だな・・”と思うようになった。

明らかに値段も高いし、旨そうじゃないか!

僕は、そんな想いがあったので、

その時、その500円を握りしめて、肉屋に行くことにした。

あまり詳しくは覚えていないが、

きっと、そこの大将かおばさんは、子供がおつかいに来たとでも

思ったんだろう・・

“何が欲しいの?”と聞かれ、

僕は、その500円を差し出し、

“これで買うことの出来る牛肉が欲しい”と言った・・と思う。

どういうやり取りがあったかもウル覚えだが、

僕は、そこそこ厚い牛肉をゲットしたことに間違いない。

きっと、サーヴィスしてくれたのだろうか??

・・

僕は早速、その肉を焼く。

背が小さいので、台所に台を置いて、フライパンを温める。

牛脂が添えてあるので、それを溶かし、

イッキに焼き色を付ける。

うん!なんとも香ばしい旨そうな香りが・・

両面を焼いて、皿に乗せる。

フライパンを洗おうとしたが、

底を見ると、これまた旨そうな肉汁がこびりついている。

これをソースにしよう!

なんとなく、その辺にあった固形のマギーブイヨンを入れる。

水分がないと溶けないので、

やかんの水を注ぎ、再度フライパンを火にかける。

今思えば、コレが初めてのデグラッセ・・(笑

そこで、更に醤油やら、ケチャップやらを適当にいれる。

全くでグラッセの意味がなくなってしまうほど、

濃い味に凌駕させてしまっているが・・

子供の僕には、その作業が楽しい。

そして、その煮詰まった変な味のソースを肉にかけて終了。

ソース作りに時間がかかるので、肉に予熱が入り、

きっちりミディアムに仕上がったではないか!・・(マグレ)

まぁ・・そんな感じで、毎週土曜はステーキの日となった。

そんな思い出を回想して、今思うことは、

随分と迷い、悩みもしたけど、

この仕事は、自分に向いていたのかもしれない・・と感じる。

最終的に【自分の中に在るものしか表現できない】と気づいた時に、

自分の根源に、ちゃんと【料理】というものがあった。

才能は別として、本能的に料理を捉えているのなら、

それは、僕の人生にとってのギフトだ。

天に授かったもの。

この年でようやく、それに気づいたことで、

僕は、これからの人生の中で、

今までとは違う向かい方ができるような気がしている。

2,3年で自分に向いているとか、向いてない・・とか言って、

仕事をコロコロと変えてしまう人には、

きっと、その景色は見えてこないだろうと思う。

いち凡人として、僕が思うことは、

やはり継続の中でしか、見えてこない景色があるということ。

それを伝えたいと思う。
余白を埋める
モノ作りの楽しさは、余白を埋めることにある。
余白とは、自分がまだ知らぬ未知の部分であって、

その余白が埋まっていくにつれ、作品の完成度は高まっていく。
ここまでやってみて、もうこれ以上上手には作れないだろう・・と、

技術の完成にたどり着いて尚、いや待て・・まだ、ここの部分を改善すれば、

もう一つ上のレベルで作れるんじゃないか?

そんな感じで、どこまでやっても、余白に気づけるか?がその人の伸びしろだったりする。

初めて取り組む仕事は、余白だらけでとても難しくもそれ以上に楽しい。

この年になっても、初めてやる仕事はワクワクする。

初めは必ず失敗する。手ごたえを見る作業なので、失敗しないと意味もない。

そんな浅い完成は、はじめから望んでいないので、それでいいのだが、

最初の失敗からどれだけ多くの余白に気づけるか?がポイントになる。

おそらく、能力の差は、そういう部分に顕著に出るのじゃないだろうか。

一連の作業工程の中で、コツのいる部分は何処なのか?

逆に、さほど気にしなくてもいい部分は何処か?

自分の中で、修正すべきポイントは何処か?

自分の中で、理解しきれていない箇所は、どの部分か?
そんな感じで、ひとつの技術を習得するプロセスが必ずあって、

そのプロセスさえ自分の中で、整理されていれば、

どんな新しい仕事も、ある程度の段階までは数回で習得できる。
習得した技術を更に上の段階まで磨こうとするには、

先に言ったように、ひとつの技術を自分のものにしても尚、完璧じゃないことに気づく、

つまり・・余白がまだあることに気づけるかどうか?

そこしかない。

・・・

思えば、自分の料理人人生は、余白だらけだった。

事前に情報を与えられたり、完成形を見せてもらったり、

作業工程をお手本として見せてもらうような環境はなかった。

お陰で、どんな作業でもゼロの状態からそこそこの段階まで、

技術向上させるプロセスを身に着けることができた。

これは、自分にとっては幸運だったのかもしれない。

タイプにもよるだろうけど、

自分の場合、答えが出ているものを

決まった通りの工程を踏んで、完成させるような仕事は不向きだ・・・

非常につまらない。

せっかくの【余白】をはじめから埋められているようなもので、

自分の中にある想像力を遮断されているような気がする。

料理の楽しさや醍醐味というのは、

体を駆使し、手を動かし、色合いや香りといった、

刻々と変化する状態を見極め、イメージされた状態に近づける・・

その工程全てが楽しいわけであって、上手くいかないこともまた楽しさの一部だ。

一度、距離を置いて頭の中で工程を整理し、

イメージを膨らます。

あの作業の時に、もう少し長く間を置けば、ここがこうならなくて済んだのかな?

いや、それ以前に、あの分量を少し減らして、あの材料の比率をあげよう・・とか、

そういう【想像】の中での作業を、また改めて次の機会でチャレンジする。

“やっぱり! 自分の思った通りだった。”

そんな風に、もの作りとは、完成に至る過程、プロセス自体が楽しいのであるが、

中には、そのプロセスを楽しめない人もいる・・・

・・・

モノ作りの楽しさは、余白の中にあるというのに、

余白を楽しめない人は、

喜びもなく、成長もない。

僕は、それが残念でならない・・・
描写力
絵画において描写力を競い合う時代はある時期に終わった・・。
技術は研究され尽くし、
カメラという発明も後押しした。

本物そっくりに描くより、
本物を超えるリアリティーを描くことに価値を見出した。

それが抽象の世界だと思う。
絵画の歴史も【創造と破壊】によって、
新しい扉が開かれた。

それは、ガストロノミーも同じだ。

フランス料理に本当は、クラシックもモードもない。

古典と前衛があるとするなら、
それは、あくまで【過去と現在】だ。

僕は、過去を懐かしむことがあったとしても、
過去を表現したいとは思わない。

古びた感性を掘り起こし、
あたかもそれが正しいかのような振る舞いは、
感性のない人が、ノスタルジーな世界に
ひとり酔いしれているだけだ。

料理にも色々な種類があって、
気心の知れた仲間とワイワイやりながら
気軽に当たり前に美味しいものを安く食べられる店もあれば、
アートを鑑賞するように・・
或いは、映画やコンサートに出かけるように、
ある作者の感性に触れるために訪れる店もある。

今のガストロノミーとは、後者であって、
万人が必ずしも喜ぶとも限らないし、
高い食事だからといって、その人が【美味しい】と
感じるという保証もない。

作者は、過去から学び、時に過去を否定しながら
【今】という時代を皿に反映させ、
【今の自分】を皿に表現する。
そのあくなき探求心こそが、
いつの時代も料理を発展させ、進化させてきた。

もし、そこを否定するなら、
今、クラシックと呼ばれる料理も存在しない。
当時は、クラシックではなく、
【ヌーヴェル】だったのだから・・・。

【革新的】なものを否定するような人は、
歴史を否定するのと同じだ。
いつの時代も【保守】は存在するが、
保守が歴史を変えることはない。

過去にしがみつきたい人に
歴史を変える勇気も才能もない。

【創造と革新】こそが、
僕の信じる道であって、
そして、我々人類が歩んできた歴史そのものだと思う。
・・・
人間の進化は止めることができない。

長い長い歴史の中でそれを繰り返し、
進化できなかった種は、滅びてきた。

進化は正に【種の保存】の原理であって、
次世代に種を残そうという本能が進化を促してきた。

我々の業界も進化の歴史の中にある。

クラシック・・なんていう料理は存在しない。
その料理も昔は新しいわけだし、その時代に生きた人が
ノスタルジーで作っているか、新しい発想がないか、
或いは、感性が古臭いだけか・・いずれかだ。

古臭い料理、今を表現している料理、時代の先をいく料理・・
あるのは、ソレだけだ。

ただ、本質的に原理原則を捉えた【変わらない料理】もある。
それはクラシックというより、その人が見つけた真実であり、
その人の【オリジナル】だ。

・・

時代は進む。
僕は、ここ4,5年で色々な挑戦に出ると思う。
ル・ミュゼという箱に、この12年で実に2億も投資した。
それは、とても重たいものであったし、実にエキサイティングで
スリリングだった(笑
それは、あと数年で終わる。
そして、それは、新し始まりだ。
大幅にお店をリニューアルする予定。
また、更に投資する。
それは、今を表現する上で必然的なことだと思うから。
メッセージ

 

 

何も案ずることはない。

 

 


自分の知る限り、人生は苦難に満ちていることに変わりない。


だから、何も心配はいらないと思うよ。


心配したところで、


苦難から回避など出来ないのだから・・・



だから、何も案ずることはない。


何も心配はいらない。


そして、上手に人生を生きようとなんて思う必要もない。


むしろ、若いうちは出来るだけ悩んだほうがいい。


今の自分に満足なんて出来ないのだから、


成長しようと思えば、悩むことは必然だ。


もし、そこで何も悩まないようなヤツは、


5年後も10年後もなんの成長も変化もないよ。


ただ、細胞が劣化しただけのことだよ・・


・・


仕事を選ぶ時のポイントは、


金や待遇じゃない。


実は、金と待遇は、自分次第でどうにでもなる。


今の自分への評価が低いのは、当たり前だ。


だってまだ、なんの役にも立ってないし、


なんの結果も出してないのだからね。


でも、明日や1週間後、半年後、1年後の自分は、どうだろう?


もし、自分が成長し、人の役に立つようになり、仕事の中で結果が出れば、


金と待遇は変わる。


そう、自分の問題であって、


変えることの出来ないことじゃないんだよ。


でも、社長の人格や会社の方針は、


自分の努力じゃ、どうにもならない。


だから、仕事を選ぶ時のポイントは、


社長の人柄と会社の理念だ。


将来の自分にとって価値のある時間を過ごせるかどうか?


自分という人間を消耗品ではなく、


一人の人間として、きちんと評価してくれるか?


若い人間の労働力を足元を見て搾取しているだけの人間や会社だって、


この世の中には、沢山存在する。


そういう社会の中の消耗品にはならないでほしい。


だから、その為にも自分の意思を強く持ってほしい。


はじめは、誰しもが自信もないし、能力もなく、なんの役にも立てない。


だけど、それとこれとは話が違うんだよ。


自分の立場はわきまえるべきだけど、


自分の考えは、きちんと伝え、そして、その意思を曲げないように。


それは、責任は取らないけど、自分の主義、主張だけはする人とは違う。


仕事の中で、きちんと責任は果たさないといけない。


その中で、自分として言うべきことは相手に伝えるべきだ。


社会の中では、結果が全てだ。


若く、未熟なうちは、なかなか結果が出ない。


だけど、素直さや謙虚さ、情熱や愛情は、全ての結果に結び付く。


もし、それが備わっているなら、


何も案ずることなどないよ。

 

それこそ、お金では買うことができない。


だから、才能だとか、自信なんかは、なくていい。


まずは、素直な心。


今と真剣に向き合えるか。


更に、人に対して誠意を持って、きちんと愛情を傾けることができるなら、


それだけで、十分すぎるほどに、十分だ。

 


この世の中の仕事で、


それを擁しても、結果が出せない仕事は、


特殊能力を必要とするような世界だけであって、


殆どの仕事は、それだけあれば十分。


あとは、明るさと健康。


健全な精神と体さえあれば、何にだって立ち向かえるし、


どんな困難も乗り越えていける。


今からなら、殆どのことに挑戦だってできる。


若さは、刹那であり、純粋で、もろく、


儚いものだけど、


可能性に溢れているじゃないかっ。


それも、またお金では買えない。


どうか、今という時間、

 

【若さ】という素晴らしいものを大切にしてほしい。


・・

 


知らない場所で、ひとり、初めて暮らすことは不安だらけだと思う。


当然、最低限度の生活を築く上で、お金は重要だね。


お金は、ある程度の安心を買うこともできるかもしれないし、


自信や豊かさにも繋がる。


貧困は、妬みや卑しさ、時に犯罪を産む温床にもなり得る。


だけど、そこまで極端な生活以外は、


最低限の収入で、どうにか生きていけるものだよ。


その収入に合った暮らしをすればいい。


それは、本当の意味での貧しさとは違う。


自分に対する貯金だと思えばいい。


そうはじめから考えることが出来る人は、


時間に対して、投資が出来る人。


今、自分に蓄えるべきは、貨幣ではなく、


精神であることに気づけるかどうかだよ。


今、手元に貨幣がないだけであって、


未来の自分への貯金をしていると思えばいい。


その変わり、しっかりと意思をもって、


毎日を真剣に、


毎日を大切に生きて欲しい。


・・


人生は、なかなかに難しいものだね・・


なかなか上手くいかない。


思うようにいかない事の連続かもしれない。


そして、誰かが言ったように、


【人生は一度きりの実験のようなものであり、
リハーサルの無い、ドラマのようなものだ】


そう、やり直しはできない。


一度決めた道をタイムスリップして逆走することはできないよね。


だから、迷ったり、


時に臆病にもなったりする。


そして、決めたあとも、


本当にこれで良かったのだろうか?と


思い悩んだり、後悔することだってあるかもしれない。


だけど、それも仕方のないこと。


やらなかったよりは、まだマシだよ。


少しでも前に進めたほうがいい。


自分の意思で決めて、


自分の進もうという気持ちに素直に向かったなら、


もし、よい結果が出なかったとしても、


それでいいじゃないか。


安全な道なんてない。


少なくとも、自分は知らない。


いずれにしても、


安全な道などないなら、


自分の好きな道を歩いたほうが人生は豊かであり、


楽しいものだ。


そう、沢山困難が待っているけど、


時々、本当に素晴らしいと思える時がある。


自分は、その素晴らしいと思える瞬間、


心から幸せだと思える瞬間が、


年齢を重ねるごとに増えてきたよ。


そう、本当に少しずつ少しずつ増えてきた。


ゆっくりと右肩上がりの人生は、


いいものだよ。


だから、何も焦る必要もない。


今の自分が嫌いでもいいし、自信がなくてもいい。


人に誇れるものがなくてもいい。


もし、それが今の自分であるなら、


これから少しずつ補っていけばいいだけのこと。


少しずつ、


前の自分よりも、今の自分のほうが好きになれたら、


それは、幸せなことだと思う。


・・


この先、何か困ったことがあれば、


いつでも、何処にいても


自分は、そこに行く。


全てを投げうってでも、


助けようとするだろう。


それが、普通の親というものだよ。


ただ、困難に立ち向かうことの邪魔はしないようにする。


残念なことに、


それは、手助けができない。


してはいけない。


たった一人で戦うしか方法がない。

 

 


きっと、この先にそういうことがある。


誰の人生にも、それが待っている。


勿論、立ち向かわずに、


逃げることだってできる。


時に、それも必要なことかもしれないね。


ただ、逃げてばかりの人生には、


それなりの未来しか待ってないものだよ。


お金だって同じこと。


楽して稼ぐ方法は、探せば沢山あるよね。


でも、それをする人としない人で分かれるでしょ。


しない人は、その先の結果を知っているから手を出さない。


貧乏暮らしがキツくても、


未来に投資する方を選択する。


苦しい事やツライ事というのは、ある意味人生の投資だよ。


もし、それを今自分の中で解決できたなら、


未来の自分には、もうその問題は困難ではないでしょ。


もっと先に進むことができるね。


そうやって、どんどん高いほうに向かって進んでいくものだよ。


選ぶのは自分。


何処で満足するかも自分次第。


自分の選択次第で、未来は常に変化していくものだよ。


・・


若い頃の自分には、自信なんてこれっぽっちも無かった。

 

自分が何かを成せるなんて、思いもしなかった。

 

ただ、ひとつだけ人とは違うことがあった。


それは、自分という存在に気づいたこと。


自分と他人は、違うでしょ。


それが、個性。


人と違うのに、


人を妬んだり、羨ましいと感じたりしている自分が、


バカバカしいと思ったよ。


そのうち、そんな事も考えなくなった。


自分にしかないものってなんだろう?


自分に何ができるのだろう?


そう考えてばかりいた。


その答えは、未だに分からない。


19歳で社会に出て、


25年も経つけど、


未だ、考えている最中だよ。


それぐらい、難しいことでもあるし、


きっと、人生が終わる時、


こう思うはず・・・


【長いようで、短い・・色々なことがあった人生だったけど、


結局、自分に何ができるのだろう?と考え続けたまま終わってしまったな・・


その過程自体が人生であって、それでも自分には、自分にしかない人生を送ることができたし、


辛いことがあった以上に、沢山幸せなこともあったな。


まぁ・・自分の人生としては、これで上々だろう。


満足したとは言えないけど、


十分に幸せだったな・・


十分過ぎるほどに、恵まれた幸福な人生だったな・・


感謝の気持ちでいっぱいなまま


この人生に幕を下ろせる。


ありがとう・・・】


まぁ・・そんな風に思って自分の人生の終わりを迎えるのかな?ってね・・・

 


人それぞれに、


その人なりの人生が待ってる。


それを懸命に生きるしかないよね。


だから、何も案ずることなどないよ。


何も心配なんてしなくていい。


堂々と自分の人生を謳歌してほしい。


寧々の人生をいつも見守っています。

 


愛する父より。

 

 

 

 

 

 

そして、単純化へ
あらゆる物事は、秩序から無秩序へ向かう。

そして、物事は単純な構造から複雑なものへと進化していく。

しかし、それはあくまで過程であって、
全てのエネルギーは、やがて【無】へと向かっていくものだ。
原始的な構造から多様化へと向かい、

多様化が飽和状態になると、

今度は、シンプルな方向に向かっていくのが、

物事の一般的な流れだと自分は思う。
ただ言えるのは、

初期段階の単純な構造が作りだす【シンプルさ】と

多様化を経て、最終的にたどり着く【シンプルさ】は、

見た目は同じシンプルでも、

内包している密度が違う。
思うに、この先の料理を考えたとき、

40年前に【より簡素に、より軽く】と謳われたムーヴメントと

多様化を経てこれから向かうシンプルな料理とでは、

大きな違いがあることに間違いはない。

まさに、それが【洗練】なのではないだろうか。
時代の波に洗われ、練られ、

時間に耐えられないものは、どんどん削ぎ落され、
 
最終的に残ったものがこれからの料理のような気がする。
・・

今は、次に向かう【単純化】への序章だ。
キュイッソンの精度を競い合う時代も終わったし、

マニアックな土着食材をクリエイションする時代にも限界にきた。

複雑すぎる料理、スタッフを多数必要とする料理、

本当は美味しくないがコンセプトありきの珍しい料理、

ビジュアルやパフォーマンスが先行された料理、

これらの料理に食べる側もそろそろ疲れ、飽きてもくる。

そして、何より先端を足り続ける料理人自身が、

飽きて、疲れている。
じゃー次のトレンドは何処に向かうのか?

そうなると、先に述べたように、

飽和状態になったら、今度は単純化へと向かっていく。

これからの時代、何が新しいのかというと、

僕の感覚でいうと、

素朴な表情だけど、洗練された料理。
その素朴さというのは、色々な表現の仕方があると思うが、

例えれば、昔からあるテクニックのブラッシュアップだったり、

原始的な器具を用いたものであったり、

食べる側が何か懐かしさやホっとするような・・・

そんなニュアンスだろう。

それをどうやって【洗練】させるかが、大きなポイント。

もし、それがなければただの古臭いものでしかないし、

客と作り手がノスタルジーに酔っているだけだ・・。
世の中には、様々な【表現物】があるが、

本当に良いものは、全て共通していて、

古典的な方法論を踏んだとしても、

作品を創り出す為の【感性】は、今に生きる人のものでなくてはならない。
今に生きる人の感性で創り出すことが全てだと僕は思う。

【今に生きる人の感性】

このフレーズが意味するところが

最も重要ではないだろうか。

先に述べたのは、そこが違っていて、

昔の感性の人が、古臭い感性の人を相手に、

ただ、昔を懐かしむだけで完結しているように思う。

それをノスタルジーに酔っているだけ・・と自分は思うし、

それを良しとした時点で、表現者としては終わりだと思う。
・・
何かを洗練させるには、

濃い密度でその物事と向き合い続けないといけない。
見つめ続けることで、

余計なものが削られていく。

その視線に耐えれないものは、

結局、時代の流れにも耐えることができない。

最終的には、【味】という目には見えないものを

見続けている作業なので、

皿の表情から推測できる情報は、

どんどん少なくなっていき、

最終的に、今のスマホ全盛、sns全盛時代の

ビジュアルで何かしらの評価を下す時代は、

料理においては意味をなさなくなるだろうし、

見た目で判断できる人の感性はより限られてくるように思う。

分かり易く言うと、

見た目でも判断はできるけど、

その見た目から本質的な味や香りまで想像できる人というのは、

稀であるということだ。

見た目で判断が付かない料理が増えることは、

実際に行くまでは何も評価できない。

それは、ごくごく普通のことであり、

本質重視に戻るだけのことかもしれない。

・・

もっと未来はどうなるのか?

単純化を極めれば、それは【無】だ・・・

人類は、そのうち食べる快楽よりも

別の快楽を見つけ出したなら、

その時間を使って、

新しい快楽へと向かうだろう。

一日1回のサプリメントの補充に30秒。

たった30秒の作業で、一日に必要なエネルギーを摂取できる。

もし、そんな時代がきたら、

外食産業は終わる。

100億人時代は、もうすぐ訪れ、

世界食糧難になることは、

随分前から話題になっているが、

サプリで事足りるなら、

そんな心配も回避できる・・・

ただ、僕の希望とは異なる。

美味しい食事をすることでしか得られない幸福を

人類は、他のどの生物より、よく知っているはずだからだ。

【無】の時代が来ることに間違いはないが、

それは、1000年、1万年・・1億年・・先?

それを今、考える必要もない。
現在、多様性を極めている料理の世界に身を置いて感じていることを

率直に綴ってみたが、

今の時代もそう長くなく、

多様化のピークの先には、新しい【単純化】が生まれるだろう。

それは、昔のシンプルではなく、

今を生きる人の新しい感性によって作り出される【シンプルさ】である。

その【洗練】をいち早く提唱できたシェフが、

次世代のトップシェフになるだろう。

それは、誰かって??
言うね〜(笑
多様性
多様性
勿論、昔から存在している言葉ではあるが、
自分が意識して使い始めたのは、ここ最近のことだ。
物事というのは、単純なものから複雑なものへと変化するようになっている。
それは、進化の過程でどうしても起こることだ。
人は、考える生き物なので、より進化させよう!と思うと、
どうしても多様な機能を増やす傾向にある。
まぁ、それも進化の過程にすぎないが、
それは、別で話すとしよう・・
・・
今の料理界でも【多様化】が進んでいるように思う。
昔と違って、料理も複雑になり、料理人、シェフ、お店に求められる内容も
多様に存在する。
だから、オーナーシェフとしてお店を構えようと思うなら、
料理だけではなく、様々な見聞を広げ、
多様な表現ツールを持ち合わせてないと、
時代の波に押し流されてしまう。
・・
人々の暮らす世界が成熟し、価値観の多様性が必要とされている現状は、
実に素晴らしいことに思えるが、
それはあくまで人が人生を生きる為に必要な価値観であって、
全てにおいて【多様化】が進み過ぎれば、
ある一方では、逆に単純化を求めだす人も増えるだろう。
・・
自分が今年45歳を迎える年となり、
あぁ・・もう25年もの間、料理を続けてきたんだなぁ・・と
愕然とした気持ちになった。
何を思って愕然としたかというと、
25年も同じことをし続けたのにも関わらず、
何一つ極めていないということにだ・・。

野菜ひとつとっても、肉も魚も、デザートは勿論、パンやシャルキュトリー・・
この料理の世界には、様々な【分野】があり、
その分野には、それぞれの【専門家】がいる。

料理の専門家であり、プロフェッショナルであるにも関わらず、
自分は、どの分野においても、
極めてもないし、専門家でもない。

もし、25年という時間を費やし、
何かひとつの分野に特化して、
修練を続けたなら、
今頃、卓越したプロフェッショナルになっていることだろう・・。

そう考えると、専門家というのは、
読んで字のごとく【専門】なだけあり、扱える範囲はとても狭く、
その代わり、とてつもなく深い。

広く、深く、網羅するには、
料理の世界はあまりに範囲が広く、
25年じゃ全く足りない。

まぁ・・自分の場合はそういうことだ。

・・
シェフの能力の多様化が全盛を極めている今の時代は、
もしかしたら、今がピークで、
これからの新しい時代は、【専門家】の時代なのかもしれない。
【プロフェッショナルの条件】という本に、
“まずは、専門家であれ”という言葉が綴られている。
何かで成果を上げる為に、絶対に必要なのが【専念すること】
これは【集中】という言葉でもいいかもしれない。
それぐらい、ひとつの物事を作り上げるには、
能力の集中が必要だということだ。
・・
今、様々な能力が求められている時代において、
その先を見越したとき、
本当に頭ひとつ抜ける能力は、
実は、【多様性】よりも【専門性】なのかもしれない。

25年・・・相当に色々なことに興味の赴くまま、
あれこれ手を出してきた自分が痛感しているのが、
まさにコレであり、
残りの料理人人生をあることに費やす
というのもひとつの考えかもしれない。

それが、自分にとって【プロフェッショナルの条件】に成り得る。
どう生きるか?


2018年も静かに始まった・・・

 

今年をどんな一年にしようか?

 

毎年、年の始めに、ふと・・そんなことを考える。

 

最近、巷で【君たちはどう生きるか】という本が売れているらしい。

 

まだ、読んではいないが、

この80年も前に書かれた本が今、漫画というフィルターを通し、

多くの人に共感を得ているというのは、

それだけ【今の時代】の先行きに不安があるからではないのだろうか?

 

・・・

 

今年をどんな一年にしようかと考えたとき、

今まで仕事中心だった生活を少し見直してもいいんじゃないかと思う。

仕事を精一杯することは、特に頑張るとかそういうことじゃなく、

当たり前にしなくてはいけないことになっているので、

今更、何か心に決める必要もない。

それよりも、【これからをどう生きるか】ということに

少し意識を向けたほうがいいように感じている。

それは、先の本【君たちはどう生きるか】が売れている理由と同様に

今、世界全体が進んでいる【未来】に対して非常に不安でならない自分がいるからだ。

何か本質的な【幸福】を置き去りにしたまま時代が加速しているように見える。

“今、進んでいる未来に本当の幸せがあるのだろうか?”

それをしっかりと検証しないまま、ある特定の人だけによって実行されている感が否めない。

・・・

人は、幸福を追求する生物だと思う。

誰もが皆、それを望む。

その為に頭を使い、何百年、何千年、何万年という歳月をかけて、
人類は、進化してきた。

より豊かな毎日を得る為に、

進化してきた歴史であり、

言い換えれば、それは進化の歴史でもあるが、

戦争の歴史でもあるように思う。

かつて人類は、太古の時代から争いを繰り返してきた。

より良い生活を得る為に、

他の部族を潰し、他の集落から土地を奪い、

自らの豊かさを確保してきた。

文明が築かれても、同じように、

大きな力を持った文明は、非力な小さい文明を呑み込んで

武力で制圧し、吸収し、更に大きな力を得て、

それが【豊かさの象徴】であるかのように力を誇示した。

そして、国家が築かれても同じだ。

小さな国を侵略し、植民地にし、原住民を奴隷にして働かせるか、

皆殺しにするか・・・

先の本が書かれた時代背景というのは、まさにその頃で、

日本が江戸幕府を解体し、明治時代が始まり、

近隣にある国に侵略を進めようとしていた時代だ。

“それが本当に豊かさであり、幸福なのだろうか?”

そんな末端国民の声は、閉ざされたまま、戦争に突入する。

日中戦争、日露戦争、第二次大戦へと・・・

国土を広げ、金を儲け、力を誇示し続けることが、

本当に望んだ豊さだったのだろうか?

・・・

敗戦した日本は、次に高度成長期へと向かっていく。

次に求めた幸福とは、世界一の経済大国“ニッポン”

まるで敗戦が夢であるかのように、

日本は復活した・・・かのように見えた。

過去の悲惨さも、同時に過去の過ちも忘れ、

また、あの頃のように何も検証しないまま時代は加速していった。

そして、バブル期が訪れ、すぐに弾けて消えた・・・

2000年・・21世紀の幕開け。

我々は、21世紀に何を夢見ていたのだろうか?

子供のころ、21世紀と言えば、手塚治虫のアニメに象徴されるような

煌びやかで美しく、豊かな世界を想像し夢見ていた。

 

しかし、現実で起こったことと言えば、9.11のテロだった・・・

 

何度も繰り返されてきた略奪の戦争によって世界の大国となったアメリカに向けた報復だ。

大きな文明が小さな文明を滅ぼしてきた歴史がここにきて限界に達したのではないか?

アメリカは、自分たちにとって都合の悪い国を制圧することを正義と置き換えた。

【テロとの戦い】 【テロに屈しない】

しかし、テロリスト対して、されたこと以上の暴力によって

【屈する】ことを要求している。

何故、テロリストが生まれたのか?

そこに目を背けたまま、新しい戦争を起こし、

次のテロを生む温床を作り出している。

これらが、果たして人類にとって進化であったのだろうか?

これらが、果たして我々が望んだ豊かさだったのだろうか?

権力と富は、一体なにを生んだのか?

いまだ人類は、権力と富を得る為に戦争を繰り返している。

・・・

君たちはどう生きるか・・・

まさに、今・・僕たちはどう生きるか?を考えなくてはいけない。

過去の過ちを反省も、検証もしないまま、

また、同じように空虚な時代を作ろうとしている。

本当に望むべき未来を皆が空想したほうがいい。

そして、もっと真剣にそれらを具体的に提案したほうがいい。

ヒトが幸福に生きることとは何か?

それらをひとりひとりが真剣に考え、【どう生きるか】という問いに
向き合うべきだ。

今、また過去と同じように何の検証もないまま、

テクノロジーの進化が加速している。

これは、もう誰も止めることが出来ない。

人工知能の進化は、まさにその核となることに間違えない。

我々は、本当にソレを望んだのだろうか?

人類にとっての【進化】とは、本当にそういうことなのだろうか?

自分は、そうは思わない。

決して止めることも、拒むこともできないだろうが、

僕は、それを本当の進化とは思えない。

この地球上で唯一の人である【ホモ・サピエンス】という極めて優秀な種の最終的な進化が、

もし、この程度であるなら、延長上にある未来は、【種の集団自殺】になると思う。

僕の目に映る今の世界を牛耳っている人々が、

人工知能というテクノロジーを人類のために有益なものとして

使用するように思えないからだ。

この世界を動かしているのは、金と権力だ。

金と権力を手にした人間には、終わりがない・・・

とことんまで貪る。

世界中の全ての金を貪ろうとする。

人工知能は、その道具に成り下がることで、

次の争いを生み、

その争いは、全人類を巻き込む。

とても複雑な未来型戦争は、とことんまで貧富の差を2極化するだろう。

手段が複雑なだけで、やってることは太古の人類と何も変わらない。

【自分ファースト】の極みだ。

僕が思う人類の進化とは、

ホモサピエンスが唯一持ち合わせた【創造性と知能】の進化だと思う。

今の時代の価値観を覆すためには、ドラスティックに社会構造を変革し、
新しい幸福の仕組みを提案することだ。

そして、知性の行きつく先は、
2度と戦争を起こさない・・ということに気づくことだ。

それこそが、野生動物にはない精神であり知性であるように思う。

種の保存という本能によってしか行動理由のない動物と違い、

人は、長年の進化によって地域全体、国全体の和平を保とうという、

極めて理性的な考えを持つようになった。

かつて、隣の部族を襲撃したり、同じ国の中で殺し合いの内戦をしていた時代を経て、

今の和平があるように思うと、次の進化は【種全体の和平】しかない。

今の時代、何県出身だろうが、日本人であることに変わりはなく、

都道府県同士で殺し合いなどしないのがあまり前であるなら、

同じ【ホモサピエンス】という一つの種である世界中の人々は、

同胞であることに間違えなく、もし本当に我々が優れた種であるというのなら、

最終的な答えは、人類の和平を当たり前のこととして捉えることの出来る能力じゃないだろうか?

・・・

仕事に懸命であることに、この先も変わりはないだろうけれど、

そのもう一方で、ひとりの人間として【どう生きるか?】を考えている。

それは、10代の頃と何も変わらない・・・

とてもシリアスな子供だったのかもしれないけれど、

自分の人生を生きているのは、自分ひとりでしかないのなら、

自分が真剣にならなくて誰が真剣になるのだろう?と思う。

今年、2018年をどう生きようか?と考えたとき、

ふと思ったことが、誰かの為に生きてみようかな?という想いだった・・

この変化は、自分にとって興味深い。

愛のない人生は、なんの意味もなく、

実に味気のないものだ・・・

つくづくそう思う・・・