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絵具



僕にとって、素材は、絵具だ。


僕は、どんな絵具でも描くことが出来る。


そこにある普通の絵具で自分の世界をさっと描く・・・。





僕にとって、素材は、絵具だ。


僕は、最高の品質の絵具にこだわる。


どうせ使うなら、最高の絵具で描きたい。


質感や発色が全然違う。


本物にしかない輝きがそこにある。





だけど、僕はその時、その瞬間を描きたい。


だから、結局は、絵具はなんでもいい。


その時の思いだけが重要だ。




どんなに素晴らしい絵具がそこにあったとして、


思いがないなら、何も描けない。





僕にとって、素材は、そういうものだ。











 
タッチ
つい最近、鮮明に感じたことがある。

それは、料理における“タッチ”である。


よく筆のタッチがどうの・・という言葉を使うが、

料理にもタッチがある。

ソースやピュレなんかを置く動作である。


この動作は、味云々ではなく、

所謂、感覚的なセンスであり、

その時代性を強く反映する要素だ。


一昔前の料理をみると、

やはりタッチが古臭い。

古臭い・・ならまだしも、

目を塞ぎたくなるようなダサ過ぎるタッチが多い。


カッコイイと思ってやっているのが

ミエミエのタッチほど、ダサさが際立つ。


・・

この数年、人工的なタッチがなんだか気になっていた。

もうこういうのは、表情がモダンなだけで、

古臭いかな?と・・・


そして、あまりに多くの人がやり過ぎてしまってて、

最近では、飽き飽きしている感じがある。

・・

タッチだけでいうと、

最近、1500×750という大きなガラスの皿に

様々なピュレを使って、即興で描いてみたが、

時間に耐えうる表現をしようと思うと、

従来の皿に行うようなタッチでは、如何せん通用しないというか、

とても違和感を感じてしまった。


もっと大胆に、

もっと自然に、

動作のスピード感がマチエールにまで伝わるような・・

そういう表情を画面に作っていかないと

作品として成り立たない感じがした。


そう、それこそが出力する意味だ。


こういう感性は、

一度、外に出してみないと

大きな気づきに繋がらない。




タッチの表情に関しては、

ここ数年、自分のパターンにも飽き飽きしてて、

もっと先に進みたいけど、

なかなか見い出せずにいた・・・。




15年ほど前に、油彩用のパレットナイフで

野菜のピュレを伸ばすタッチをその時初めてやって、

暫く続けていたが、その時は“これはいいな・・”という手ごたえがあった。


当時、誰もやってなかったし、きっと誰も着目してなかった。

また、新しいという感覚的なことだけじゃなく、

古びない普遍的なタッチだとも感じた。


写真はないか?と探したが・・あった。




うん・・やっぱりダサいな・・(笑




全体的に料理として、アウトだが、

当時を考えると、2000年そこそこなので、許してあげよう・・・。




でも、これは自分にとって、

記録であり、当時を切りとったスナップなので、

とても重要な記録だ。


イメージにあったものを出力したことで、

次の表現に繋がったのは確かなのだから・・・。





最近、別のことを集中して考えていると、

こういうビジュアル的なことに無頓着にもなる。


別と言うのは、勿論・・味のことでもあるし、

もっと外側の表現だったり・・・




ピンポイントでタッチのことだけを集中して考えることが最近なかったが、

今回のマチエールを生かす料理に取り組んだことで、

もっと違うタッチがあるように思えた。


15年前の当時は、料理に油彩用のパレットを使うこと自体が斬新だったが、

今は、特に斬新でもない・・・


筆や刷毛を使うもの・・・まぁ普通かな?




何かが飛び散ったようなのも、全然ふつう・・・

とっくの昔にやったことだ。


そこだけフォーカスすること自体がナンセンスだが、

それはそれとして、

自分なりのオリジナルで、

次の新しい表情を画面に創りたい。


そこで、根本的なことからもう一度考える・・


野菜やフルーツのピュレを皿に盛るタイプの料理は、

まだまだ続くと思う。

それは、意味のあることだからだ・・・

だとすると、この先も多くのシェフが

ピュレを皿に置く作業を繰り返す。

その都度、何万人というシェフが、

もっと新しい置き方はないか?

新しいタッチはないだろうか?

と考えているはずだ。




現場では、どの店も基本的に

ピュレを何かしらの容器に入れて、

キュイエールを差し込む。


キュイエールでピュレを掬って、

皿の上でどうにかする・・


ここまでは、一緒だ。


変な道具があるにせよ、

色々やっているうちに、

やはり、スプーンに落ち着く。


スプーン以外の道具で、

長く使っても飽きない道具があれば、

料理業界全体に

新しいタッチが生まれるとは思うが、

そうそう無いから、

ワンパターンなのだろう・・・




ピュレ以外に、ソース的なものを流す上でも、

スプーンが常備されているのが利便性から言っても通常なので、

なかなかどうして代わりがない。


じゃー・・30年前の料理は??


やっぱり、今とは随分違うじゃないか。


同じスプーンを使っても、

皿に対する構図、配置、動作、量・・

全てが違う。




ということは、

30年後の未来でも違うはずだ。


そう考えると、

私は、今・・30年後のスタイルを見つけたいと思ってしまう。




そうだなー・・・

まず、量が問題だ。


最近思うのは、量が多いかもしれない。

ソースは不要なので、いらないとして、

ピュレ系なんかも、今の1/5ぐらいが主流かもしれない。


昔は、こんなにベターっとピュレを皿に置いてたんだねー・・ダサーい。

みたいな感じかもしれない。


耳かきスプーンぐらいな量が妥当かもしれない。


そう考えると、耳かきぐらいのスプーンが厨房のビーカーに

沢山、常備されている感じかな?




きっと、そうなるだろう未来を感じて、

3年ほど前から耳かきスプーンは買ってある。




未来の料理は、よりピュアなエッセンスだけを抽出したような、

香と風味だけが生き生きとしたものが主流になるはずだ。


犒擇″という定義は、

時代と共に、変化し続けるものである。










 
清潔感


清潔感という言葉がある。


よく耳にする言葉だが、

あまり意識して使ったことも聞いたこともない。




それは、文字通り、

それ以上でもそれ以下でもない。

そのままの意味しか持ちあわせていない言葉なので、

特に意識的に特別な意味を含ませて使用しないからだ・・


・・


ここ数カ月の間に、

この清潔感という言葉に対して、

2回、立ち止った。




ひとつは、

9歳の娘が、【お父さんの好きなところは?】と聞かれた際に、

【清潔感があるところ】・・・と答えたらしい。




相当に微妙な部分を褒められて、

複雑な気持ちになった。


父親に対して、ピンポイントでソコっ?・・と思う・・・。


まったく意識していない部分だったので、

余計にそう思った。


もうひとつは、画家の先生が食事に来た時。


石井さんの表現には、清潔感があるね。・・と。


清潔感??


料理の表現、ビジュアルの世界、構図や配色、ディテール部分・・

そういう画面に対しての評価で、清潔感・・というフレーズ?


なんだか、ハッとした。


自分では、全く意識の無かったことであったが、

実は、その瞬間、とてもその意味が分かってしまった。


ずっと前から、なんとなく感じていたこと。

そう、別に汚れているとか、そういうことじゃなく、

なんとなく、表現が汚いと感じる人がいることを・・・




実際、奥底で感じはいるけど、

言葉では言わなかったこと。


・・・


【美しい表現】というのは、そのままだけど、

【清潔感のある表現】というのは、似ているが少しニュアンスが違う。


勿論、内包しているのだが、

やっぱり、ニュアンスが違う。


この誰もが分からないかもしれない感覚的な言葉選択が、

画家の先生に言われたときに、ピンときて、

何かとても嬉しい気分になった。


そこに気づけたことと、

それが自分の表現であったことと、

どちらも嬉しかったのだろう。


・・・


人にとっての清潔感とは、

何もキレイ好きだとか、潔癖症だとか、

そういうことじゃない。


キレイに、ものを見つめる感性なんだと思う。


表現とは、表に現れると書いて【表現】という言葉になる・・

故に、何かが【表】に現れて、はじめて表現となる。


その【何か】とは、何か?

それは、自分自身の中に内在するものだ。


内に何を抱えているのか?


それは、精神の純粋性以外にない。


それが、全てだと僕は思う。
神は細部に宿る
この言葉の本来の意味は、

あらゆる芸術で優先されるのはいつでも作品【全体】の価値である。

しかし、【細部】の集合体が【全体】を構成しているのだから、

素晴らしい作品というのは、

構成するディテール部分、ひとつひとつが完璧なものでない限り、

全体像としての【作品】が完璧にはなり得ない。




前衛建築家のミース・ファンデルローエ・・

或いは、美術理論家のヴァールブルクが言った言葉とされています。

 

要約すると、

「細かなディテールを疎かにしては全体の美しさは得られない」

「細かくこだわった細部こそが作品の本質を決める」




そんなところでしょうか・・。




自分的には、もう少し先の解釈がある。


それは、自分の感覚的なものであるし、

自分がモノ作りをして、リアルに感じる言葉だ。




神は細部に宿る・・・その細部は、

実は、目には見えない。




別に、具体的な細かい仕事ではない。


勿論、もの作りをする上で、

誰も気にしないような実に細かい部分まで、

徹底した作品というのは、

絵画やデザイン、映画、音楽・・なんでもあらゆる表現物において、

【神が細部に宿ったな・・・】と実感するし、

それゆえ、素晴らしい出来栄えとなるのだが、

そうした具体的なこだわり部分を

構成しているのは、

テクニックや手先の器用さが創りだしているものではなく、

深い精神性から細部に【繋がり】を与えているように思える。




精神性の矛先が、たまたま細部に宿るだけであって、

細かい部分の細工が素晴らしいこととは違う。


誰も気にしないような部分に、何故そこまで執念を燃やせるのか?


まさに、そこの理由の中にこそ、精神が宿るわけであって、

精神が宿ることを神が宿ると言い換えているにすぎない。


だから、見た目が同じように完璧であったとしても、

張りぼてと本物は、何か違う?と感じるのは、

そこに精神があるかマネごとなのかの違いだ。


だから、実に細かい細部にまで作業が施されているからといって、

神が宿っているわけではない。


ココロという目に見えない物質は、

ある種のエネルギーを持っていて、

不思議なパワーをものに宿す。


生命力を感じる表現というのは、

そういうものであって、

言葉では説明がつかないオーラを放っている。


それを感じた時に、言葉で説明がつかないからこそ、

【神が宿っている】という言葉を用いる・・・




僕は、そう思っている。

 
振り子




僕は、振り子そのものだ。


光と闇を行ったり来たりの人生だった・・・




人は皆、振り子のように

揺れ動き、

いいことも悪いことも起きる。


いいことも悪いことも起きるというより、

実は、その全ての原因は自分自身にある。


僕は、きっとソコに対して、

とても敏感なんだろうと思う。


・・


僕は、どう考えてもいい人ではない。

立派な人でもないし、

自信もない。


成功者でも勝者でもない。


・・


僕は、振り子そのものだ。




善と悪、

光と闇、

表と裏、




いつも振り子のように

行ったり来たりを繰り返す。




僕が抱える悪も闇も裏も・・・

とても深い。


それは、自分ではどうすることもできない。


だから、そこからどうにか抜け出して、

自分を浄化するために、

僕は生きているのかもしれない。





・・


だから、僕は、

何かを伝えるにも、

表現をするにも、

コントラストを描こうとしてしまう・・・




闇の無い表現に僕の心が揺れ動くことはない。


ただ美しいだけの言葉や

ただキレイ事を並べた詩に、

何も感じることはない。


でも、きっとその作品は素晴らしいのかもしれない・・・


ただ、素晴らしいからといって、

僕が受け入れることが出来るかどうかは全く別の話しだ。


・・


負の感情を持たない人なんているのだろうか?




僕には、分からない・・・

もしかしたら存在するのかもしれない。


僕は、振り子のような人生の中で、

光と闇を掴み、

そして、そのコントラストを描く。

それしか出来ない。


だからこそ、

出来る表現だってある。


僕は、僕の人生の中でそれを描き続ければいい。
見つめる先に在るもの






今、長年封印していた絵画と陶芸をはじめた。

封印といっても、

やっていたわけではない。

ずっとやりたいことであったが、

もし、取り組んでしまうと仕事が手につかなることが分かっていたので、

そういう意味で自分の中では封印していた。

・・

しかし、ここにきて二つ同時に始めるとは想像していなかった。

やるにしても、どちらかひとつから始めるものだと思っていたのだ・・

実際にやってみると、

予想通りの部分と

予想を越える部分とが二つ見えてくる。


予想を越える部分にこそ、

人生の面白さが隠されているように思う。


何事も同じだ。


人は経験を積むにつれ、

色々なことが具体的に想像できるようになっていくが、

しかしながら、

どんなに経験を積んでもなお、

想像しきれないことが必ずある。


それこそが次のステージに上がる為の経験であったりする。


それは、絶対にやったことのある人にしか見えてこない世界だ。

そして、その先には、

やり続けた人にしか見えてこない世界も待っている。


僕は、料理同様に、

その【やり続けた人にしか見えてこない景色】を見たいと思う。


・・・

今、料理という仕事をしながら、

絵画と陶芸を真剣にやっている。

これは、想像通り・・とてつもないエネルギーを使う。

そして、この3つは僕にとってハッキリと重なる部分と、

全く異なる部分が存在する。

その世界にしか無い特有の要素がきちんと存在することを知る。

そして、同時にどの世界でも同じことも言える。

モノを作る。

モノを表現する。

モノを創造する。

これらは、僕の中では出力された結果が異なるだけで、

その本質にあるものは同じだ。


僕が24年やってきた料理という世界のベースが自分にあることは、

ひとつの土台になる。

それは、物事を習得するプロセスにおいて

大きなヒントだ。


自分が何もできない状態から独学で

料理のメソッドを習得してきたプロセスは、

間違えなく自分の中に備わっているからだ。


それは、自分自身で日々考え、失敗し、その自分と向き合い、

そして、その作業を継続してきたからだ。







・・・


継続の中でしか、絶対に見えない世界がある。

それは、料理の中で学んだ。

そして、それは現在進行形であり、

今も尚、学びの途中である。




絵画や陶芸は、僕にとって掛け替えのない表現ツールになりつつある。

観賞する側に甘んじてきたこの数十年であったが、

ここにきて、表現する側のスタートラインにやっと立つことが出来た。

それは、誰でもなく

この自分にとって、

幸福であることに間違えない。


それほどまでに、自分が長年求めていた世界だからだ。


その世界というのは、

別に、絵画や陶芸のプロの世界という意味とは違う。

継続の先に、後付けでそういう現象があり得たとしても、

それは、自分にとって二次要素であり、またどうでもいいことである。


求めていた世界とは、

その制作の中にある精神世界だ。


これは、なかなか料理の中では味わい切れなかった感覚である。


静寂の中、一人きり

無の世界と向き合い、

自分の中にしかない世界を見つめる作業。


この状態は、何とも言えない感覚がある。


恍惚感? 喜び? 幸福?


なんだろうか??


今の僕には、既存の言葉は見つけることができないが、

これほどまでに、この新しい世界に浸っている状態が

自分にとってしっくりとくる感覚を他で見つけられない。




それに近い状態を料理の中で何度も作り上げようとしてきた24年であったが、

それは、現実的になかなか難しい。

そして、それが何故難しいことであるのかを

ここで説明することが非常に面倒なほど、

自分の中でハッキリと多くの理由が存在している。




・・・


僕の今回の取り組みの中で、

10年先のヴィジョンが明確になってきた。

僕が何を手にしたいのか。

どこに進もうとしているのか。


僕は、自分の心の中に今、それをハッキリと描き始めている。


しかし、この二つの世界というのは、非常に難解で、

料理同様に、生涯続けられたとしても、

その真髄を知ることができないままかもしれない。


今、3つのジャンルの中で、自分の思考回路が、

様々な表現様式に迷路のように絡み合っている状態で、

言葉として出力するには、相当に早い段階ではあるが、

こうした状態の今を記録しておくことも大切だと自分は思う。




それは、まさに今を切りとったスナップ写真そのものである。


文書にしても、作品にしても、

自分の場合は、全て未完成なまま終わる。


成長し続けている状態において、

作品は、その時その瞬間を切りとったスナップであり、過程にすぎない。

完成した段階は、単純に切り上げただけであり、

それで終わりということではない。


ひとつの作品を作る過程で、

今まで知り得なかった“気づき”が間違えなく自分の中にあるわけで、

その時点で既に今作っているその作品に着手し始めた自分を超えている。

それは、もう今作っていながらにして、既に過去のモノとなっている。




キャリアを積めば積むほどに、その気づきのスピード感は落ちてくるとは思うが、

今、これだけの多様な表現に向き合い始めると、

初期段階なのも手伝ってか、物凄いスピードで日々景色が変わって見えるのが分かる。


そして、これをマルチタスクのように

多様なジャンルの思考を行ったり来たりしながらも、

10年、20年、30年と積み上げた後、

僕は、きっとこう思うはずだ・・・。




全ての道はひとつであると。




そして、今やっている基礎的な技術や知識が、

なんら必要となくなり、

表現における【芯】の部分だけが残るようなイメージを持っている。




しかし、その一本の【芯】を表現する為には、

多くの【無駄】が必要であることも知っている。

結果、人生において、無駄なことはひとつもない。


また、表現という世界において、

最後に残る【芯】の部分とは、丸裸にされた自分そのものであり、

その自分の中に【芯】があるかどうかで決まるような気がする。


それは、ある種【哲学】のようなもので、

哲学のない人は、色々な知識や技術を身に付けたとしても、

最後には、何も残らない。




よいものを作ろうとするなら、

やはり、自分の中にあるものを見つめ続け、

悩み続けるほか答えは、ないように思う。




今、自分はその真っ只中に生きているが、

しみじみと幸福を感じている・・・








 
フォンとジュ





ここ数年、フォンやジュは、自分の料理にあまり重要じゃないので、

オーソドックスなものを用意はしていたが、

それほど独創的な作り方はしていなかった。


あまり重要じゃない・・といっても、

料理に乗るもので、重要じゃないパーツなどひとつもない。


あくまで、担う役割として主な食材と比べると、

重要じゃない・・という意味。


クラシックなフォンやジュは、

現代の料理にどうしても必要なものじゃないが、

その作り方の背景にあるものは、

非常に重要だ。


素材の選別、それぞれの量、野菜を切る大きさ、

筋やガラ、ミルポワの焼き具合、

ムイエするタイミングや何をどれぐらい入れるか。

それぞれの工程で発生した“香り”をどう液体に閉じ込めるか。

どの程度まで煮出し、どのタイミングでパッセし、

どこまで煮詰めていくのか。

ひとつのフォンやジュをとるだけで、料理人として様々なの感性が問われる。


私がイメージするソレは、

水という無味無臭の液体に、

それぞれの要素を移しこむ作業と捉えている。


これは、非常にデリケートな作業だ。


・・


毎朝スタッフが僕の立つまな板の前に水を用意してくれる。


サラダに使うハーブが何かの拍子で、コップの水に中に入った。


試しに5分ほどそのまま放置して

その後、飲んでみた。


すると、水に微かなハーブの香りが付く・・


たった一枚のセルフイユの葉っぱだけでも、

その水の味は変化する・・・


水という液体は、それだけデリケートな物質だ。


その水に焼いたガラや野菜、ハーブ、スパイスなどを入れて、

数時間も加熱するのだから、その影響はすざましい・・と思う。


ほんの少し焼きすぎた骨や野菜が入るだけで、

雑味や苦みが液体に移る。


・・


料理に対する意識が高ければ高いほど、

こうした基礎は厳格に行われるものだ。


また、今こうしたものを料理に使わないとしても、

フォンやジュをとる技術の中に、

料理を作る上で大切な要素がギッチリと詰まっている。


・・

ここまでが前置きだが、

フォンやジュの基本的な考えは、

フランスの風土に根付いて考えられたものだ。


要するに、使う野菜も肉も

筋やガラも

全て、フランスの食材であり、

最も重要な【水】も

フランスの硬水を基準に考えられている。


それが、フランス料理のベースとなっている。


そう考えると、日本の風土に合ったフォンやジュの取り方はどうなんだろう?


勿論、今までのやり方でそのまま日本の食材に置き換えて作っても、

きちんと丁寧に作れば、美味しいフォンがとれる。


しかし、それは【ソコソコ】美味しい・・程度だと思う。


何と比べるかが問題だ。


自分には分からないが、長年フランスの厨房で仕事をしてきた料理人が、

日本で同じルセットで作っても“同じ味にならない”と嘆くに違いない。

それは当たり前の話で、素材も水も違うのに同じ味になるはずもない・・。


逆に、昆布出汁をヨーロッパで作っても、

当然、日本と同じものはとれない。


ごくごく当たり前の話だ。


しかし、これだけ当たり前の話であるにも関わらず、

そこを深く掘り下げてフォンやジュを語っている人は少数だ。


僕が今フォンやジュをとるなら、

今までやってきたことは一度全て忘れたい。


我々の世代は、もう次の段階にきている。


ここまで先人が苦労して築き上げてくれた基礎を

より高度に発展させるべきだ。

高度とは、完成度という意味合いと、

それぞれの土壌に根差した新しいゴールを設定すべきという二つの意味でだ。


これらは主役じゃない。

美味し過ぎるフォンやジュが、

その土地の素材に添えてバランスが取れるとは限らないということだ。


例えば、


とても身質の繊細な白身の刺身に、

濃いダマリ醤油を付けるヤツはバカだ・・

これは、極端な話だが、

そもそも最終的にどんな料理として出したいか?

どんな美味しさを表現したいか?

もし、素材のシンプルな味わいを表現したいなら、

ソースなんて必要ないし、

その土地の特産物をメインにして考えるなら、

その素材の味わいを邪魔しないような素朴なジュを考えればいい。

少しの旨みをプラスしたいなら、そのようなジュを作り添えればいい。

この一皿に水分が欲しい・・潤滑油として考えるなら、サラサラのものを添えればいいし、

濃いエッセンスをほんの少し添えたいなら、

しっかり凝縮させたものを添えればいい。

最終的に何がしたいのかで、

作り方は変わるし、準備の段階から変わってくる。


さっきの醤油の話は、濃いものを繊細な味のものに添えても意味がないという話だったが、

別に濃さだけのことを言っているワケじゃなく、美味し過ぎるものを

質素なしみじみとした味わいの素材にぶつけることが意味がない・・ということも言っている。


フランスから伝わったクラシックな方法で

今の料理人が必ずしもとる意味がないということだ。

覚えるべき基礎は、基礎として理解し、

自分の中に叩き込む必要があるが、

そこで終わってしまうのではなく、

自分の中に落とし込み、自分の持つアイテムとして、

より高度に進化させることが現代の料理人の使命だ。




また、別の話にもなるが、

必要だから作る・・・という理由とは別に、

素材を無駄にしてはいけない・・という背景も同時も持っているのが、

フォンやジュだ。


どうしてもソースが必要であるから作るのとは違う意味合いだ。


素材の持つ要素を余すところなく使い切り、

一皿に乗せ、全てを頂くことが素材に対する感謝と愛情だという教えだ。




我々は限りのある資源の中でそうして生きてきた。


それは日本もヨーロッパもアフリカも北米も南米も・・・世界中同じだ。

そこに区別はない。


限りのある資源を大切に無駄にしないように生きてきた人間の営みであり、

それが食文化というものだ。


・・・




現代の料理にフォンやジュは必要がない。

そんな旨みの強い、重たい味のエッセンスはもはや時代遅れだ。

素材そのものの味をもっとクリアにフォーカスした料理こそが

現代のテイストだ。

そんなことに時間や手間をかけるぐらいなら、

もっと別のことに時間を使うべきだ。

【美味しさ】を追求するのなら、素材の不要な要素は、ごみ箱行になっても仕方ない。

際立って上質で洗練された美味しさだけを追求すべきだ。




例えば、こんな事を言う人がいるとして、

それはそれで正しい。

それは、その人の生き方であり、料理観だ。




ただ、そこだけではない意味合いも同時に発信する必要があるし、

特に若い子には、そこまでを伝えて尚且つ、今はウチの店では必要としないアイテムである・・と

教えてあげる必要もある。




フォンやジュの持つ意味合いは、

料理を構成する味だけではないということを・・・。
 
伝えなくていいこと
昔からよく思うことがある。


言葉では説明のつかない領域についてである。


若い頃は、自分の理解が浅いのもあり、

また、言葉を駆使するのが下手なこともあり、

【コトバでは説明できないから・・】と言い逃れをしてきた。


しかし、時が経って、

それを少しずつ他人にも言葉で説明できるようにもなった。

今は、出来るだけ誰でも理解できるように、

理論的に話をするように心がけている。


説明できないのは、自分の問題。

自分が深く理解し、相手に愛情を持てば、

言葉を駆使して分かり易く説明できるはずだ。




・・・とここまでが一般論。


勿論、ある側面では、自分もそう思い実践している。




しかし、その領域を超えるような事柄もある。


要するに、言葉・・というツールだけでは、

伝えきれないことがあるということ。




人はいつのまにか、言葉というツールが意思伝達において、

万能であるかのごとく、勘違いしているようにも思う。


それは、まるでその言葉がそれそのものであるかのように・・・。


少し分かりにくい表現だが、

情報の入り方として、言葉がある程度揃うと、

受ける側は、それ以上の情報を入れようとしない働きがあるように思う。


音楽や映画、絵画や料理といった【表現物】があるとして、

その作品について、作者が中途半端にその作品について、

あれこれ説明を添えれば、その作品は見る人には委ねられない。

作った本人が言うのだから、それ以上でもそれ以下でもない・・と思うわけだ。




しかし、本来はそうじゃない。


作品にもよるが、通常は多くの背景があり、

作品は表面に出ている一部分にしか過ぎない。


見る側は、その一部分を見て、聞いて、感じて、

そしてあらゆる感性を働かせて、

その作品の奥行を感じ取る。


奥行を感じ取るのは、説明がないからだ。


自分と作品との距離感の中で、

意思の疎通を図り、

対峙することで生まれるものだ。


そこには、余計な説明は不要なはず・・・。




そういう感性は、実に大切な感覚だと思う。





人間は、生物の中で唯一【コトバ】を手にした。


言語によるコミニュケ―ションを獲得したことで、

他の原人よりも優位に立った。


ホモサピエンスが地球上で生態系の頂点に君臨できたのは、

創造性と言語の確立だ。


しかし、我々は言葉という実に曖昧なツールによって、

本来の感性を鈍らせてしまった感も否めない・・。





言葉は、表面に出ている一部分にしか過ぎないということを

改めて知るべきだ。




言葉も表現物と同様であるということだ。


その向こう側を感じ取る必要があるなら、


言葉もアートだ。




しかし、アートを言葉で説明するのは、とても野暮なことだと思う。





この世には、言葉では説明のできない領域の事柄が沢山ある。


言葉にして伝えるべきことと、

伝えなくてもいいことがある。


そんな話です・・・。


 
コンディションを創造する




仮名【体験型食空間】


キャプション


20xx年、○月○日。


彼は、いつものように仕事に出かけた。


仕事は、いつも単調だ。


この厨房にも、この客席にも、

この土地にも、


そして、自分が創り出すこの料理にも飽き飽きした。




どうしてこの先に進めないのだろうか?


最高の感動体験をしてほしい。


【未だかつてない食の体験を僕は想像し、創造したいんだ。】


突然、彼はスタッフにこう告げた。

【もう全てのことに飽き飽きしたので、今日をもって全てをやめる】







彼は、本気だった。

すぐに車を走らせた。


彼は、海を探し、山を探し、畑を探し、森を探した・・・。


あての無い旅ではない。


彼の中には、明確なイメージがあった。




最高の美味しさを普通の環境で提供するには限界がある。


誰もが見落としていることがある。


誰もが、目の前の料理が最高であれば、

最高に感動してくれる・・と思いこんで疑いもしない。


彼は、ずっと前からそれが疑問だった。

そして、そこを疑っていた・・・




何故、食べる側の状態を知ろうとしないんだ?




食材も最高、設備も最高、スタッフも一流を集め、

最高の仕事が出来るようにこれ以上ない労働環境も用意した。


でも、料理は出して終わりではない。


最終ミッションは、相手を感動させることだ。


でも、相手が今どのような状態であるかについて、

我々は知ろうとしていなかった・・・


ずっと疑問だった点は、そこだ!




僕は、まずそこから考え直した。




“最高のコンディションを相手に与えることから始めよう”





勿論、自分の体調ではない見ず知らずのお客様のコンディションを

コントロールすることは、もはや料理人の範疇ではない。

しかし、

範疇を越えていかない限り、新しい可能性は生まれない。




自分が料理人であり、その本分がなんであるかを決めるのは、自分でしかない。

まずは、自分の中にある【料理人】というフォーマットを壊していくことからはじめよう。




彼は、究極のガストロノミーを探求すべく、

新しいスタイルの宿泊型レストランを創ることにした。


ホテルでも、レストランでも、オーベルジュでもない・・・

既存の呼び方やカテゴリーは、もはやどうでもいい。




皿の上・・という小さな枠からはみ出し、

箱全体・・いや、環境も含め、

全てを料理の一部と捉える感覚が必要だ!


それは、過ごす時間が全てコースの一部であることをテーマにした、

“宿泊体験型美食空間”である。




いくつか新たらしい試みがあるが、

目玉となっているのが、

【お客様のコンディションを創造する】という試みだ。




我々がターゲットにしている顧客層は、

普通の人ではない。


プロ、ジャーナリスト、富裕層、

そうした世界中の一流ホテルやレストランを知り尽くしている人たちだ。


そういうお客様は、決まって暴飲暴食・・・

連日、外食が続いている人も珍しくない。


そういう人は、

基本忙しくて、時間に制限もあったり、

旅で疲れていたり、

当然、食べることにも疲れていたりする・・・。




提供する側としては、

それだけ、状態が悪いところからスタートしないといけない。




それを前提に、ディナー前日の体調と精神状態から

こちらでコントロールする試みだ。


宿に着いたその瞬間から、

実は、この店のコースは始まっている・・・


お客様は、そのことには全く気付いていない。







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お客様が到着。


この施設には、チェックインはない。


コンシェルジュが笑顔で迎え、


まず、真っ直ぐにある場所へと通される。


この場所の一番の決め手となった、

【聖なる湧水】の場所だ。




お客様の今の感情は?

早く、ゆっくりしたい。

早く、座りたい。

早く、渇いたのどを潤したい・・


その感情をぐっと我慢していただき、

彼女は、手短にテンポよく、

こんな話をする。




この土地の歴史背景。

この水の神話。

この水の効能。

この水が全ての調理に使用されている話。


全ては、ここから始まる。


“人の感情をデザインする”ことをテーマにしている我々の

もっとも重要なパーツが、この水のくだりだ。




この儀式によって、

全てのお客様は、リセットされ、そして引き込まれる。


説明も早々に、部屋に案内されると、

さきほどの水が“完璧な温度”でサーヴィスされる。




窓からは、海。

逆サイドの窓からは、畑と牧場、そして山。




壮大な自然を背景に、

完璧に調和された室内のデザイン。




そして、寛ぐことにもひと段落した頃合いで、

ふとテーブルに置いてある“カード”が目に留まる。




開いてみると【ここでの過ごし方】が明記されている。





我々のミッションとお客様の目的がひとつであることを

確認し、その為に準備して頂きたいことや注意してほしいことが

簡潔に書かれている。





ここに訪れる時点でお客様も十分にそれを理解した上で、

予約されており、その具体的な内容がそこには示されている。




全ては、明日のディナーに向けての準備であることを・・・





キャプション


我々チームには、明確な役割分担がある。


・総合ディレクター

・シェフ・クリエイティヴ

・シェフ

・部門シェフ

・キュイジニエ

・アート・ディレクター

・音響デザイナー

・グラフィックデザイナー

・空間ディレクター

・照明デザイナー

・サーヴィス・ディレクター

・サーヴィス

・コンシェルジュ

・フード・アシスト

・メンタル・デザイナー

その他、宿泊と温泉、スパには、

それぞれの担当者がいる。


宿泊は、10部屋オールスイート。

1室4名まで可能で、

最大で40名。最小で20名。1名は受けない。




・・・


具体的なルール説明が終わり、

夕食までは、特に何もない・・・


時間にして3,4時間程度は自由である。

散歩する者、

温泉へ行く者、

スパに行く者、

部屋で寛ぐ者・・・





宿泊当日の夕食は、

質素である。


内容は、実に計算されたものが提供される。


ここでも、お客様には、意図は伝えない。


しかし、この夕食は、

明日のディナーと繋がっている。


全ては、新しい感動の為。




そして、

翌日を迎える。


この時点で、バラバラだったお客様の状態が、

大まかに同じラインで揃う。




ここにいるお客様全員に、

同じ施術を行い、同じ空間で、同じ夕食を食べ、

同じ時間の流れを感じてもらった。

その成果が出始めるのは、

丁度、この【翌日の朝】というラインである。




ここにはもう、疲れている人もいないし、

食べ過ぎの人も飲み過ぎの人もいない。

イライラしている人も、懐疑的な人もいない。


リラックス、安堵感、解放感、期待感・・・

空腹すぎる訳でもなく、勿論満腹なワケもない。

色々な仕掛けによって、それ以外にも、

味覚、嗅覚、視覚など【感じる】能力が高まるように、

前日から仕込みされている。




前日から仕込まれているのは、それだけじゃない。

お客さまには“渇望”を与えている。




これは、我々にとってとても重要な“キーワード”である。


意図的に“渇望”を創りだし、提供しているのだ。







キャプション


朝食も選択脚はない・・

朝、お客様には同じ時間、同じ場所、

同じメニューを食べて頂くシステムになっている。




朝食を終えて、ランチタイムまでは自由だが、

昼食も基本、朝食と同じライン。

皆が揃って同じもの。




ここまで来ると、いよいよ少し苦痛になる者も出てくる。


ここが限界。


普段、我儘な人たちが多いここの顧客にとって、

楽しくルールを受け入れながら、渇望を与えられる【限界】が丁度このあたり。


しかし、丁度このラインが来店して24時間経過のラインでもある。


朝の時点で大体揃っていた【状態】もここまで来ると

ほぼ完全に揃い始める。




ここからが最後の仕上げだ。





昼を終えた、14時から17時までの3時間は、

行動制限と食事制限がある。


完食はNG。

飲み物は水のみで500ccまで。


行動は、宿泊施設の周りを囲む、

海、山、畑、牧場・・

この4か所を案内。




今夜のディナーは、すべてこの4か所から生まれた食材だ。


お客さまには、全ての食材を実際に見て感じてもらう。


この4か所には、【フード・アシスト】がそれぞれ常駐してて、

海には海のプロ。

山には山のプロがおり、

食材の背景、性質、どのような料理になるのか・・

そして、いつ採れたものをどの温度でどのように提供すると

最大限ポテンシャルを生かせるのかを説明する。


しかし、どのエリアにいっても、

試食はさせない。


渇望と期待感、そして空腹だけがどんどん加速する。





キャプション


18時ジャスト

とうとうディナーが開始される時間が来た。




一同に、メインのレストラン空間に集まる。




お膳立ては全て完璧に出来上がっている。


ここからが彼らの出番だ。


ここでは、料理ごとに【照明】も【音楽】も変化する。


レストランスタッフ以外にも、

そうした演出を担うプロがこの瞬間の為に準備をしている。




いよいよディナーがスタート・・・










第二部へ続く・・・。







この物語はフィクションです。


ただの私の妄想です・・(笑


 
現実




僕は、リアリティーを描きたい。


現実離れした、架空の世界の中に、

リアルな現実を描く・・・




言葉にすると理解しがたく、

矛盾に満ちているが、

これこそが、僕の表現。




僕の創る世界は、

矛盾に満ちていて、

現実とかい離してる。


だけども、僕はいつも現実の中で妄想していて、

現実を描こうとしているんだ。




・・・


今回、僕は6枚の絵を創造した。


今までにない世界観を出力したかった・・


結果は、どうだろう?


そして、どうであったかなんて、


もはやどうでもいいこと・・・


僕は、あの日、あの瞬間を出力しただけのこと。


それ以上でもそれ以下でもない。


そして、もはや、それすら過去の出来事。


自分の中では、全ては消化された。


自分が過去に描いたものに、


なんの執着も興味ない。


鮮度が失われたものに、僕は何も感じない・・・





僕はまた新しい表現を探している。


・・・


最近、パリでまたテロがあった・・・


こんなことが起きると、


平和ボケしているせいか、


急に緊迫したムードが漂う。


だけど、それが日常の地域も世界には沢山ある。

緊迫したムードや楽しいことに対する自粛ムードが漂うのは、

平和な地域であって、


逆に、日常の中で

毎日、ピストルや爆弾の音が聞こえ、

そこら中に死体が転がっているような場所では、

何もムードなんて変わりはしない・・・

むしろ、笑い飛ばして生きていくほかない。


それが現実だ。


・・

僕の中には、二つの考えがある。

テロや戦争もある意味【自然界の一部だ】という考え。

もうひとつは、理屈抜きで断じて許せないという考え。




僕は、昔から【人間も自然の一部である】という基本的な考えのもと

色々なことを判断して生きてきた。


小さな微生物から数十億年という歳月をかけて、

生命は進化して、その中に木や虫や動物がいて、

その動物の中に我々人類も属している。


人間だけが特別な存在であり、

人間がすることや創りだしたものは【人工】で、

それ以外が【自然】がもとになって起きた【自然現象】だ・・

という考えは間違えだ。


人間も、自然の一部だ。


人間だけが何も特別なんかじゃない。


そのことに対しては何度も触れてきた。


生命の進化は、生存競争によって淘汰されながら、

勝ち残った種が子孫を繁栄させ、次世代に自分の種を残す。

勝者である優れた種が残るということは、

その時代の環境に適応して変化してきたということだ。

その繰り返しが【進化】だ。


生物には、そうした遺伝子が組み込まれている。


生存競争は生物の【本能】だ。


問題は、戦い方だろう・・・


もし、人間という種が他の生物よりも優れており、特別な存在であり、

進化を続けているというなら、

テロや戦争といった方法での戦いから足を洗うべきだ。


しかし、全く止める気配は感じない。


結局は【種の繁栄】という原始的な本能のまま、

今の時代を生きている。


ここでいう【種】とは、人という大きなくくりじゃなくて、

【国家】や【人種】であり、あるひとつのコミュニティーだ・・・


自分たち【同胞】を守り、繁栄させる為に、

敵対する【誰か】と戦い、そして【消そう】とする。




これは、言葉で言っても意味が無い。

残念ながら・・

これは、生物としての【本能】だ。





これがひとつの考え方。





でも、この考えにリアリティーがない。


自然のすることなので、仕方ない。

とか、

生物の本能なので、仕方ない。


現実には、そうは言えない。




僕たちは、現実の中で毎日を生きている。




・・・




年が明けて、来年の1月にパリに行く。


随分と前から決まっている予定だ。




僕には、18歳になる娘がいる。


娘をフランスに留学させる。


高校卒業してすぐに家を出す。


流石に少しは、不安なので、


現地に慣れさせる為にも、

下見として、パリに行くことにした。




初めていく親子フタリでの旅行・・

ここ数年、あまり会話も無かったので、

父親としては、いい思い出だ。





でも、もしそこでテロにあったらどうだろう?


もし、別行動の時に

娘だけに何かがあったら・・・。




そう考えるのが【現実】だ。




生物の進化や

本能などとは言ってられない。




・・・


二つ考えがあるというのは、


つまりそういうことだ。


受け入れるべき自然現象と

受け入れることが困難な自然現象がある。




テロや戦争といった【自然現象】は断じて受け入れることができない。








・・・


我々は、世界で戦争が起きても、

身近なところでテロが起きても、

自分の人生や自分の日常を毎日、生きていかなくてはいけない。




大切な家族を守らなくてはいけない。




今、自分が何をすべきで、

誰を守り、

誰を幸せにするべきなのか?




そして、何を受け入れて、

何と戦って生きるべきなのか?




リアルな現実の中で、

僕はそう考える。




リアリティーのない、

言葉も作品も、

僕には興味が無い。




僕は、僕の現実と向き合って、

今を生きるしかない。







だから、今何をすべきか?という問いには、

僕は、答えない。


それは、僕の中では何も変わらないからだ。


今までと同様に、

今という現実を生きるほかない・・・




それが【現実】であり、

それが、今自分に出来ることだと思う。











 
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