<< October 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
基本

 

何においても基礎や基本がない限り、その応用はない。

 

何処にいってもことさらに“基本、基本”と言われる。

 

料理の世界においても、

 

基本が出来てない!とか、

 

まずは、基本が大切。とか、

 

誰もが口にする。

 

ごくごく当たり前のことで、

 

自分も若いスタッフには、うるさく言う。

 

基本の重要性は、この25年のキャリアの中で

 

随分と考えてもきたし、何度も痛感してきた。

 

だから、今更文書にするようなことでもないし、

 

あるレベル以上のシェフは、誰しも同じようなこと言っているので、

 

わざわざ、自分が言うようなことでもない。

 

 


僕のようにひねくれた思考の持ち主であれば、

 

そんな分かり切ったことより、

 

もっと斬新が意見があってもいいかな?とふと考えてみた。

 


基本??

 

そんなもん、どーでもいいんじゃないの?ってね。


・・

 

これは、さんざん基本の重要性を考えた人にのみに有効な言葉かもしれないけど、

 

良い結果を生み出す=基本ができている人。

 

という方程式が、必ずしも正しいくはないということ。

 


事実、我々の商売は、目の前の人を喜ばすことができてナンボの商売だ。

 

しかも、継続的に何十年も常に目の前のお客を喜ばせ続ける才能があるなら、

 

その人は、【良い結果を出している】と言えるだろう。

 

基本や基礎というのは、良い結果を生み出すための

 

ほんの1パーツにすぎない。

 

・・と、そんな見方も出来る。

 


例えば、専門的に音楽を学んだことのない人がいるとして、

 

学生時代に趣味で応募したコンクールで入賞し、

 

たまたまレコード会社の目に留まり、

 

メジャーデビュー・・なんて話は、またにある。

 

楽器も我流で上手いとも言えず、

 

歌も生まれつきの能力だけでやってる感じで、プロフェッショナルではない。

 

ただ、人の心に響く歌声で、

 

人間的にも魅力的。

 

売れ始めてから、後付けて色々なスキルを身に着けていった。

 

だけど、売れた要因は、スキルではない。

 

人を惹きつける魅力があったからだ。

 

・・

 

表現物には、様々なものがある。

 

音楽、絵画、写真、映画・・・などなど実に様々だ。

 

人を魅了する作品を創り出す人って、

 

皆、基本や基礎がしっかり出来ていた人なのだろうか?

 


実は、後付けタイプのほうが多いような気がする。

 

はじめは、【表現したいんだ!】という若さというか、強いエネルギーで

 

突き動かされるように作品を生み出してきたんだと思う。

 

ソレが、多少粗削りでプロからみて、

 

スキルが素人っぽくても、

 

それを凌駕する【魅力】があれば、

 

人は【感動】する。

 

 


もしかしたら、我々の業界は、そういう迸るようなエネルギーを潰しているのかもしれない。

 

修行、修行もいいけど、

 

基本ばかりの反復と雑用ばかりのキツイ仕事で、

 

その人がもっている可能性や個性、素晴らしいエネルギーの源を

 

がんじがらめの世界に閉じ込め、ダメにしていることも多いんじゃないだろうか?

 

 


我々の世界は、旨いもんを作れてナンボ。

 

そこには、基本的なメソッドがある。

 

その基礎をしっかり身に着ければ、

 

後々自分の財産になる。

 

100人いて、99人は、そういう一般的な方法論で

 

きちんと学んだ方がいいかもしれない。

 

ただ、それが全てではない。

 

今、挙げたように、

 

その方法一辺倒では、せっかくの【面白いヤツ】が、【つまらないヤツ】になる。

 

そして、どんなに素晴らしい基礎を学んだとしても、

 

最終的に結果を出せる人は、ほんの一握りだ。

 


そう・・

 

自由にやろうが、きっちりやろうが、

 

最終的に一握りの人しか結果が出ない世界なら、

 

自由にやってもいいんじゃないの??

 

これは、最終ゴールを何処にするかの問題もあるけど、

 

そういう考えがあっても間違えではない。

 


人を喜ばせる才能に、基礎も基本もないということだ。


若いスタッフの教育上、これほどの問題発言もないようにも思うが、

 

我々は、職人であること以上に、

 

人に【感動】というものを【創造】する職業であることを

 

よく頭に入れておいてほうがいい。


もし、自分にその才能があると思うなら、

 

我が道を進むべき。


そして、自分の信じる道を辛くても進み切る。

 

その先に何が見えるのか?

 


結局、

 

【やっぱり基本は大切だな・・】・・と、

 

自分で気づく日がくる・・

 

 


そんなオチ(笑

 

 

 

・・・

 


最後に余談かもしれないが、

 

最近、年を重ねたせいか若いエネルギーがとても輝いて見える。

 

その“一瞬の輝き”の尊さを我々はもっと大切にしてあげるべきだと強く思う。

 

何故、その輝きを認めることや賛美することよりも、

 

潰すような態度に出る人が多いのだろうか?

 

自分たちが、かつて修行時代に味わった苦しみや辛さを

 

同じように味合わせたいという思いもあるんじゃないだろうか?

 

心の奥底にある、その思いは一体何を産むというのだろう?

 

この業界を愛しているなら、数少ない貴重な人材をもっと大切に扱うべきだし、

 

もっと尊い存在だと思うべきだと思う。

 

その【愛】が不足してるように感じる。

 

 

ゆとり教育の弊害に対する社会の反省や、甘やかしから一体何が生まれるのか?という声。

 

そういう意見とこの問題を同レベルで語ることも間違っている。

 

無意味に甘やかす必要もない代わり、無意味に厳しくする必要もないということだ。

 

過去の反省点として、無意味な厳しさというのもの日本の社会にあったことを反省すべきだ。

 

極端な方向で議論すべきじゃない。

 

バランスの取れた中で愛を持って指導すべきだし、

 

門を叩いた時にあった若者の輝きやモチベーションをもっと尊重し、

 

大切に扱うべきであると自分は思う。

 

ある部分は、昔とは違う。

 

その時代にあった教育の仕方もあるだろうし、

 

今までの概念にはなかったような新しいトライアルもあっていい。

 

その中には、時代に関係なく人を育てる上で重要なキーワードがあるだろう。

 

【個の尊重】【精神の自由を与え愛をもって見守ること】

 

そうした本質を理解した上で、

 

若い子たちにチャンスを与え、未来を創造してもらわない限り、

 

この国にも、この業界にも明るい未来はないように思う。

 

ここからが本当の余談かもしれないけど、

 

自分のように出来の悪かった人間が出来ること、言えること、

 

してあげれること・・・を考えた時、

 

やはり、今までとはアプローチの違う方法で、

 

若い子の才能を伸ばしてあげたいと思うのです。

 

 

基本に忠実であることも大切だけど、

 

振り切るほど、自由に想いを表現することの大切さと楽しさを伝えたいと思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夢・人生観

 

 

 

 

 

 

 

僕は、夢ばかり見てる、夢のない子供だった・・・

 

18歳の時、この先の進路をどうしようか?という時期に、

 

最初はデザイン学校の願書を片っ端から集めていた。

 

何処のデザイン学校にしようかと迷っている頃に、

 

ふと・・“調理師免許をとったほうが現実的じゃないだろうか?”と思った。

 

全く夢のある発想ではなく、どうやって暮らしていくかを考えていた。

 

・・

 

僕は、子供の頃から夢という言葉があまり好きじゃない・・。

 

何か、その背景にある大人たちの思惑が隠されているような気がしていたからだ。

 

だから、若い頃から甘い夢など見たことがない。

 

あるのは、厳しい現実のみだと思っていたし、

 

【今】という瞬間を生きるだけで、

 

精一杯だった・・というのが正直なところだ・・・。

 

・・

 

我々は今の若者たちに何を伝えられるのだろうか?

 

そして、どんな未来を提案すべきなのか?

 

日々、伝えていること。

 

日々、与えていること。

 

それは、それぞれの将来の目標に向けて役立つだろう生きる術だ。

 

では、その目標とは何か?

 

【その目標を達成したとき、君は本当に幸福なのかい?】・・と問いただす。

 

それは、本人にではなく、伝えている自分自身に対してだ。

 

・・

 

人には、一人ひとり異なった目標や夢や幸福感がある。

 

しかし、人によっては、

 

自分にとって本当の幸せとは何か?が分からないまま社会に出る。

 

そして、そこに目を付ける悪い大人たちもいる。

 

それは、昔も今も同じだ。

 

個の人生観が確立する前の若者に対して、

 

夢を煽る・・

 

【若者たちよ夢を持て!】と・・。

 


その大人たちが勝手に描いた夢に乗って、

 

必死で頑張って、その先に手にしたものは、

 

大人たちに貢ぐための金だった・・

 

そして、そんなカラクリにも気づかぬまま、

 

社会に埋もれていく・・。

 

 

よくある話だが、そうはなってほしくないし、

 

自分自身が若い頃、そうはなりたくなかった・・

 

夢を持つな・・とは、言わない。

 

しかし、甘い夢は捨てるべきだ。

 

それが本当に【自分が求める幸福な姿】なのかをよく考えたほうがいい。

 

・・

 

どの職業においても一流と呼ばれる人がいる。

 

そこを目指したり、憧れることは悪いことではないし、

 

自分を高める上でもよいことかもしれない。

 

だけど、【憧れること】と【目標】にするのでは意味が違う。

 

自分の身の丈を遥かに超える【目標】を設定して、

 

挫折してしまう人が殆どである現状を冷静に考えたほうがいい・・

 

 

人には、生まれ持った宿命というか、その人に合った器が用意されているように思う。

 

その器は、大きさも違えば、色、形が全て違う。

 

だから、1000人いれば、1000人の人生があり、人生観があるはず。

 

なのに、大雑把に3択か4択程度のオプションしか与えられなかったとしたら、

 

そこからはみ出してしまった人は、可哀想だ・・。

 

それは、今の教育制度の延長にあるのかもしれない。

 

社会に出てもそれは同じ。

 

そうなってくると、知らぬ間に人の夢に乗っかったり、

 

見てなかったハズの夢を見させられたり、

 

自分という固有の存在が取り残された形で、

 

どんどんと時間だけが過ぎていく。

 

本当にコレでいいのだろうか?

 

薄々そう感じつつも、もう止めることも変える勇気もない。

 

自分の身の丈に合わないものを追いかけて、

 

そして、躓き、這い上がれず、挫折する。

 

それが生存競争に負けたもの・・とみなされ社会は切り捨てる。

 

そもそも、その原因を作ったのは誰か?

 

【夢】を煽った大人たちの罪か?

 

それとも、それに乗った若者たちの未熟さか?

 

それは、両方かもしれない・・・。

 

だから、その罪を誰も見つめようとしない。

 

そして、煽った大人たちは心の中でこう呟く。

 

“才能なく、努力も足りず、夢を追いかけたが故の敗退、それは自己責任”と。

 

自己責任という、とても都合の良い言葉があって、

 

結果がどうあろうと、それはソレを選択した【あなたの責任です】と社会は言う。

 

でも、経験を積んだ大人たちは、若者を見て、

 

ある程度の判断は初期段階で分かっているはず。

 

しかし、そこでもこう言う・・

 

“誰しもに未知の可能性がある!夢を諦めず努力しよう!”と・・・。

 

そんな思ってもないことを口にして

 

若者たちを戦場に駆り出した罪は重い・・。

 

 

・・

 

僕がお勧めしない理由はこの辺にある。

 

高い意識を持ち一流を目指すことと、

 

身の丈を知らずに上昇志向に乗って、

 

勘違いしたままに他人が作り上げた張りぼての夢に向かうこととは、

 

本質的に違う。

 

自分だけが本来持ち合わせた【身の丈】に合った【目標】を設定すべきだと思う。

 

これは、現実を見て小さく纏まれ・・と言っているわけではない。

 

ごく自然体で、自分を見つめ、自分を知り、自分に合った人生のプランニングをするべきだと思う。

 

今の時代は、あまりにも情報が多いし、

 

様々なメディアからの情報も簡単に入る。

 

スマフォひとつで、世界で活躍する人物の姿を目の当たりにすることができ、

 

それはあたかも【隣の友人】のような親近感すら覚え、錯覚する。

 

“自分もこうなりたい!こう成れるんじゃないか?”と・・・。

 

そう思う簡単さとは裏腹に、そうなる為の努力はしない。

 

まさに、ソレが夢のような幻想だ。

 

だけど、僕は今の時代は、情報が多いからこそ、

 

自分で自分に合った人生を自由にプランニングできるように思う。

 

昔は、もっと選択脚が少なかったし、

 

何かに挑戦するにも今の何倍も苦労が必要だった。

 

今の方が遥かに様々な間口は拓かれていることを考えると、

 

これは、昔と比べ有利でもある。

 

そうした、良い部分を活用し、周りに惑わされることなく、

 

情報を選択していければ、自分なりの道が拓かれるように思う。

 

だからこそ、まずは自分自身をよく知ることから始めて欲しい。

 

【そこが全ての出発点であること】を再認識してほしい。

 

それを置き去りにしたら、最終的なゴールはない。

 

・・

 

何を目指すか?という目標設定の前に

 

スタートラインの設定をすることから始めるべきだ。

 

皆、ここが抜けている。

 

スタートラインは、自分を知ること。

 

自分が掲げている目標は、自分にとって幸福であるか?を吟味すること。

 

それを達成し、自らの手に収めた時の自分をリアルに想像すること。

 

そして、スタートから目標達成に至る経緯に無理がないか?

 

それが【自分】にとって可能であるかを検証すべきだ。



・・・

 



【人が夢を見る・・それが【儚さ】である】

 

 

僕が、この言葉を目にしたのが丁度、中学生の時だった。


 

それからも僕は夢を見続けて、追いかけては、



何度も挫折し、


 

そこから這い上がり、やっと夢を捕まえて、



この手の中に収め、


 

見つめてみた・・

 


残念なことに、ソレは手から零れ落ち、


瞬く間に消えた。


【夢ってなんだろう?】


それは、カタチの無い自らが創り出した幻想だった…


だから僕は、また追いかけるのです。

 








 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解放

 

僕は、ただ自由になりたかった。

 

【自由】という言葉に惹かれ続けた・・・

 

そして、【自由とは一体何か】ということをずっと考えてもいた。

 

当時20歳ぐらいだったと思う。

 

 

 

抑圧された社会。

 

封建的な会社。

 

20歳の若者にとって、

 

反発心を抱く上で、これ以上ない環境だった。

 

もしかしたら、

 

当時の自分にとって、その【不自由さ】は、

 

幸せだったのかもしれない・・・

 

 


もし、仮に自由な環境であれば、

 

僕の中で【自由を手にしたい】という願望は、生まれなかっただろう・・・

 

 

 

僕は、会社を辞め、

 

社会から飛び出し、

 

そして、日本からも抜け出してしまった。

 

独りフランスに旅立った僕の中には、

 

解放感と同時に無気力で無力な自分がいた。

 

全ての抑圧から解放されたはずの僕には、何もなかった・・・

 

 

 

【自由って一体なんだろう・・・】

 

 

時が過ぎ、

 

僕は、シェフになった。

 

もう、上からの指示で料理を作ることはない。

 

僕は、僕の料理を作ればいい。

 

僕は、自由なのだから・・・。

 

 


そこでも、また抑圧が待っていた。

 

業界には、フランス料理とはこういうものである・・という

 

暗黙のルールや規範があった。

 

 


今にして思えば、それは幸せなことだったのかもしれない。

 

その枠から一歩はみ出すだけで、

 

異端と呼ばれる。


それは、批判でるあると同時に、

 

周りの料理人にとって脅威でもある。


僕の表現は、良くも悪くも噂になった。


僕の住む街は、閉鎖的だ。

 

そして、ほんの小さなコミュニティーで形成されている。


ちょっと変わったヤツが出てくれば、

 

アッという間に噂にしてくれる。

 

僕にとってソレは好都合だった。


批判されればされるほど燃えてくるし、

 

抑圧が強ければ強いほど、

 

そこからはみ出そうとする。


だけど、今の僕には戦う相手がいない・・・

 

社会にも受け入れられ、

 

会社は僕のもの。

 

この業界でも、そこそこ名前が売れた。

 

もう、昔のように反発する相手がいなくなった。

 

 


業界では今、何をしたところで世界という枠組みの中では、

 

平凡の域を出ない・・・

 

この街で個性的であろうとも、

 

世界のガストロノミーの中では、

 

取るに足らないことだ。

 


自由であることやエキセントリックなことは、

 

もはやスタンダードであるといってもいいぐらいに、

 

世界の食のシーンは、自由に溢れている。

 

そうなってくると逆に、

 

際立ったシンプルさや素朴なものの方が個性的にも見えたりする。

 

僕の求めていた【表現の自由】って、一体なんだったのだろうか?

 


【枠】というのは、大切なものだ。

 

そして【自由】というのは、

 

逆に表現をつまらないものにしてしまいがちだ・・・

 


【自由】は時に

 

解釈の過程で、

 

【デタラメ】にもするし、

 

【なんでもあり】にしてしまう・・・。

 


デタラメやなんでもあり・・は、ルールの枠に収まっていない。

 

格闘技の世界で【この試合のルールはなんでもありです・・】とかいったりするが、

 

なんでもあり・・は、ルールじゃない・・。

 

ルール違反すらルールです・・という解釈がめちゃくちゃだ。

 

そういう類のものには、品がない。

 

そして【面白味】がない・・・。


ルールや枠があるからこそ、

 

【際立つ】表現がある。


僕の持ち味を考えても、

 

今の【なんでもあり】の世界は、

 

非常に【生かされない】

 

自由があまりに飛躍していくと、

 

【解放】は解放ではなくなるし、

 

表現の爆発力は半減する一方だ。

 


【解き放たれたい・・・】


表現者にとって、

 

そのエネルギーが表現に爆発力を生み出し、

 

光と輝きを与える。

 


僕が待ち望んだ【自由の世界】は、

 

手にしてみると、

 

【何もない世界】だった。

 


まるで、20歳のころに感じた

 

あの空虚な気持ちと重なるように・・・

 

 

 

 

 

 

 

真実は、美しい。 美しさもまた、真実である。


【真実は、美しい。 美しさもまた、真実である】

 

この言葉は、ある細胞学者の英語文を私が自分の解釈で和訳したものである。


ネットで検索しても、これと同じ文は出てこない。

今後、この言葉を検索するとこのブログに辿り着くはずだ。


・・


この言葉は、実に深い・・・。

たったこの一文で、全てを言い表しているように思える。


美しさとは何か?


という漠然とした問いに対して、

その更に上をいく抽象的な答え。


しかしながら、

この言葉は、

その全ての意味合いを内包しながらにして、

シンプル且つ、的確に

その答えをいい表している。


この文こそが、まさに美しい・・・


・・・


引くことも、

足すことも出来ない、

過不足のなく流れる言葉。


美しさとは、

そういうものだ。

 

そして、それが真実。


真実には、補足など必要がない。

嘘には常に言い訳がついて回る。


・・・


僕の汚れた精神は、

いつも、真実を突き付けられ、

怯え、跪く・・・


僕にとって、表現とは修行であり、

精神の浄化であり、

自己の探求である。


いつも、自分を探し、

美しさを求め、

真実を追いかける・・・

 

 

 


【真実は、美しい。 美しさもまた、真実である】

 


本当に美しいものに出会いたい・・・

 

そう心から願う【精神】


その【祈り】の中に

自分の本当の【姿】が見えたとき、

僕は終わってもいいのかな・・・

 

真実の美しさを知らずして、

死にゆくことは、実に悲しいことだ・・・

評価


あなたは、僕を過大評価しすぎだ。

僕は、あなたが思うほど、才能はない。


そして、君は僕を過小評価しすぎのようだ。

僕は、君に理解されるほど、単純ではない。


僕は、時に絶賛され、そして酷評される。


世間はバカだと思っていたが、

思ったほどバカでもない。


全くもって正しいじゃないか・・・


どの評価もそれはそれで正しい。


ただ、その中で誰一人として、

僕を知る者などいないという点において、

非常に残念に思う。


だから、よい評価も悪い評価も自分にとっては、全く同列だ。

真実を知る者にとって、

小さな嘘も大きな嘘も、

嘘であることに変わりはないのだから・・・。

続・ガストロノミーの未来

以前に書いた【ガストロノミーの未来】から一年半ほど経過して、

今思うこと・・・。


フードロス?

環境破壊?

人口爆発??


どうだろう・・・


・・・


改めて考えてみている。


我々は所詮、100年程度の尺度でしか、ものを見ていない。

そして、殆どの生物は、その瞬間に生きているに過ぎない。

人間にしても、過去を振り返ったり、歴史を紐解いてみたり、

また、未来を想像したり、未来に生きる人々の為に何か残そうと考えてみたり・・

そんな風に思考の中で時空を超えたりすることがあったとしても、

今日、明日を生きることで精一杯なのが現実である。

自分の人生を全うすること。

生物として、それ以上のミッションはあるのだろうか??


・・・


そう考え着いてしまうと、

以前書いた自分の記事に疑問を感じる。


【今を精一杯生きる】


ここに答えがあるじゃないか・・・

 


皆が誠実に今を精一杯に生きさえすれば、

もしかしたら、様々な問題も解消するかもしれない。

【生き方】だけが問題ではあるが・・・

 

・・・

 

この言葉も自分的には幾分、違和感がある・・・。

果たして【精一杯】という表現が正しいのか?

生きるという行為に、

精一杯という言葉が必要なのか?


・・・


話を戻そう・・・


先に挙げた未来の地球が抱える問題。

今の自分的には、それは【未来の人が考えるべき問題】である。

それが結論だ。


何故今そう思うかというと、

そうしたサイクルは、今に始まったことではないと痛感したからだ。


その時代、その時代で人間やその他生物は、

その瞬間を生きてきたにすぎない。


変化する環境に応じて、自己を守り子孫を残してきた、

利己的遺伝子なわけで、

まずは、自分である。

それは、本能だ。

今の地球環境を作ってしまったのは【誰?】・・・と言っても、

誰でもなく、また全てである・・と言える。

要するに、誰でもないが、全ての人にその責任がある。


しかし、それは【人間】という【種】が持ち合わせた【本能】だ。


それは、避けがたい・・・。


善も悪もなく、

ただ、ひたすらに人は、今の環境を作ってしまったに過ぎない。

その瞬間に生きた我々だけが、罪を背負っているわけではない。

今に繋がる歴史が脈々と過去から現在に流れているのである。


【このままじゃ、200年後の地球が危ない!】

と警鐘を鳴らしていた人たちが200年前にいたかもしれないが、

大きなウネリの中では、もうどうることもできない。

それが【自然の摂理】だと思う。


この46億年の地球の歴史の中で、

何万回と様々な環境変化があり、

生物の9割が死滅するような大惨事も何度もあった。


・・・

今に生きる我々が未来の環境や未来に生きる人々を憂う気持ちは、非常に尊いが、

それはそれである。

感じ、思うことは大切なことであるが、

それは生きる上での本質ではない。

やはり我々のミッションは【今、この瞬間を生きること】でしかないと思う。


・・・

自分は、未来に生きる人々の為に何ができるだろうか?と言って、

今の自分の人生を犠牲にし、何かの活動をしている人がいるなら、

それは本末転倒である。

その行為は、単純に自分に酔いしれているだけであり、

自己満足に過ぎない。

それは、あまりに無知だ・・・。

自然というものを知らなすぎる。

自然の摂理というものは、

そんなに簡単に変えることができるはずがないし、

そして、それほどヤワじゃない。


もし、自然という個体があったとして、

言葉がしゃべれるならこう言うだろう。

【オマエなんかに心配されたくねーよっ。何を勘違いしてるの?

あなたは、一体ナニ様のつもり?

そんな暇あったら、自分のことを大切して生きろよ!】

そういうに決まってます。


オゾン層が破壊されようが、

人間が100億人を超えようが、

自然全体でみると、

よくある小さな変化のひとつです。


だから、楽観視していいじゃん・・っていう話ではないです。

どの時代に生きる人々も必死に生きているということ。

その時代、その時代で抱える問題があるということ。

我々は、過去でも未来でもなく、

【今を生きている】ということ。

 

過去から引き継がれた【財産】もあれば、負の遺産もある・・・


そういうバランスの中で、

その時代に生きる【生命体】は、己の一生を全うする。


単純にそれだけのことに今は思えます。

 

だから、僕は、今・・この瞬間の中を生きているのです。

絵具



僕にとって、素材は、絵具だ。


僕は、どんな絵具でも描くことが出来る。


そこにある普通の絵具で自分の世界をさっと描く・・・。





僕にとって、素材は、絵具だ。


僕は、最高の品質の絵具にこだわる。


どうせ使うなら、最高の絵具で描きたい。


質感や発色が全然違う。


本物にしかない輝きがそこにある。





だけど、僕はその時、その瞬間を描きたい。


だから、結局は、絵具はなんでもいい。


その時の思いだけが重要だ。




どんなに素晴らしい絵具がそこにあったとして、


思いがないなら、何も描けない。





僕にとって、素材は、そういうものだ。











 
タッチ
つい最近、鮮明に感じたことがある。

それは、料理における“タッチ”である。


よく筆のタッチがどうの・・という言葉を使うが、

料理にもタッチがある。

ソースやピュレなんかを置く動作である。


この動作は、味云々ではなく、

所謂、感覚的なセンスであり、

その時代性を強く反映する要素だ。


一昔前の料理をみると、

やはりタッチが古臭い。

古臭い・・ならまだしも、

目を塞ぎたくなるようなダサ過ぎるタッチが多い。


カッコイイと思ってやっているのが

ミエミエのタッチほど、ダサさが際立つ。


・・

この数年、人工的なタッチがなんだか気になっていた。

もうこういうのは、表情がモダンなだけで、

古臭いかな?と・・・


そして、あまりに多くの人がやり過ぎてしまってて、

最近では、飽き飽きしている感じがある。

・・

タッチだけでいうと、

最近、1500×750という大きなガラスの皿に

様々なピュレを使って、即興で描いてみたが、

時間に耐えうる表現をしようと思うと、

従来の皿に行うようなタッチでは、如何せん通用しないというか、

とても違和感を感じてしまった。


もっと大胆に、

もっと自然に、

動作のスピード感がマチエールにまで伝わるような・・

そういう表情を画面に作っていかないと

作品として成り立たない感じがした。


そう、それこそが出力する意味だ。


こういう感性は、

一度、外に出してみないと

大きな気づきに繋がらない。




タッチの表情に関しては、

ここ数年、自分のパターンにも飽き飽きしてて、

もっと先に進みたいけど、

なかなか見い出せずにいた・・・。




15年ほど前に、油彩用のパレットナイフで

野菜のピュレを伸ばすタッチをその時初めてやって、

暫く続けていたが、その時は“これはいいな・・”という手ごたえがあった。


当時、誰もやってなかったし、きっと誰も着目してなかった。

また、新しいという感覚的なことだけじゃなく、

古びない普遍的なタッチだとも感じた。


写真はないか?と探したが・・あった。




うん・・やっぱりダサいな・・(笑




全体的に料理として、アウトだが、

当時を考えると、2000年そこそこなので、許してあげよう・・・。




でも、これは自分にとって、

記録であり、当時を切りとったスナップなので、

とても重要な記録だ。


イメージにあったものを出力したことで、

次の表現に繋がったのは確かなのだから・・・。





最近、別のことを集中して考えていると、

こういうビジュアル的なことに無頓着にもなる。


別と言うのは、勿論・・味のことでもあるし、

もっと外側の表現だったり・・・




ピンポイントでタッチのことだけを集中して考えることが最近なかったが、

今回のマチエールを生かす料理に取り組んだことで、

もっと違うタッチがあるように思えた。


15年前の当時は、料理に油彩用のパレットを使うこと自体が斬新だったが、

今は、特に斬新でもない・・・


筆や刷毛を使うもの・・・まぁ普通かな?




何かが飛び散ったようなのも、全然ふつう・・・

とっくの昔にやったことだ。


そこだけフォーカスすること自体がナンセンスだが、

それはそれとして、

自分なりのオリジナルで、

次の新しい表情を画面に創りたい。


そこで、根本的なことからもう一度考える・・


野菜やフルーツのピュレを皿に盛るタイプの料理は、

まだまだ続くと思う。

それは、意味のあることだからだ・・・

だとすると、この先も多くのシェフが

ピュレを皿に置く作業を繰り返す。

その都度、何万人というシェフが、

もっと新しい置き方はないか?

新しいタッチはないだろうか?

と考えているはずだ。




現場では、どの店も基本的に

ピュレを何かしらの容器に入れて、

キュイエールを差し込む。


キュイエールでピュレを掬って、

皿の上でどうにかする・・


ここまでは、一緒だ。


変な道具があるにせよ、

色々やっているうちに、

やはり、スプーンに落ち着く。


スプーン以外の道具で、

長く使っても飽きない道具があれば、

料理業界全体に

新しいタッチが生まれるとは思うが、

そうそう無いから、

ワンパターンなのだろう・・・




ピュレ以外に、ソース的なものを流す上でも、

スプーンが常備されているのが利便性から言っても通常なので、

なかなかどうして代わりがない。


じゃー・・30年前の料理は??


やっぱり、今とは随分違うじゃないか。


同じスプーンを使っても、

皿に対する構図、配置、動作、量・・

全てが違う。




ということは、

30年後の未来でも違うはずだ。


そう考えると、

私は、今・・30年後のスタイルを見つけたいと思ってしまう。




そうだなー・・・

まず、量が問題だ。


最近思うのは、量が多いかもしれない。

ソースは不要なので、いらないとして、

ピュレ系なんかも、今の1/5ぐらいが主流かもしれない。


昔は、こんなにベターっとピュレを皿に置いてたんだねー・・ダサーい。

みたいな感じかもしれない。


耳かきスプーンぐらいな量が妥当かもしれない。


そう考えると、耳かきぐらいのスプーンが厨房のビーカーに

沢山、常備されている感じかな?




きっと、そうなるだろう未来を感じて、

3年ほど前から耳かきスプーンは買ってある。




未来の料理は、よりピュアなエッセンスだけを抽出したような、

香と風味だけが生き生きとしたものが主流になるはずだ。


犒擇″という定義は、

時代と共に、変化し続けるものである。










 
清潔感


清潔感という言葉がある。


よく耳にする言葉だが、

あまり意識して使ったことも聞いたこともない。




それは、文字通り、

それ以上でもそれ以下でもない。

そのままの意味しか持ちあわせていない言葉なので、

特に意識的に特別な意味を含ませて使用しないからだ・・


・・


ここ数カ月の間に、

この清潔感という言葉に対して、

2回、立ち止った。




ひとつは、

9歳の娘が、【お父さんの好きなところは?】と聞かれた際に、

【清潔感があるところ】・・・と答えたらしい。




相当に微妙な部分を褒められて、

複雑な気持ちになった。


父親に対して、ピンポイントでソコっ?・・と思う・・・。


まったく意識していない部分だったので、

余計にそう思った。


もうひとつは、画家の先生が食事に来た時。


石井さんの表現には、清潔感があるね。・・と。


清潔感??


料理の表現、ビジュアルの世界、構図や配色、ディテール部分・・

そういう画面に対しての評価で、清潔感・・というフレーズ?


なんだか、ハッとした。


自分では、全く意識の無かったことであったが、

実は、その瞬間、とてもその意味が分かってしまった。


ずっと前から、なんとなく感じていたこと。

そう、別に汚れているとか、そういうことじゃなく、

なんとなく、表現が汚いと感じる人がいることを・・・




実際、奥底で感じはいるけど、

言葉では言わなかったこと。


・・・


【美しい表現】というのは、そのままだけど、

【清潔感のある表現】というのは、似ているが少しニュアンスが違う。


勿論、内包しているのだが、

やっぱり、ニュアンスが違う。


この誰もが分からないかもしれない感覚的な言葉選択が、

画家の先生に言われたときに、ピンときて、

何かとても嬉しい気分になった。


そこに気づけたことと、

それが自分の表現であったことと、

どちらも嬉しかったのだろう。


・・・


人にとっての清潔感とは、

何もキレイ好きだとか、潔癖症だとか、

そういうことじゃない。


キレイに、ものを見つめる感性なんだと思う。


表現とは、表に現れると書いて【表現】という言葉になる・・

故に、何かが【表】に現れて、はじめて表現となる。


その【何か】とは、何か?

それは、自分自身の中に内在するものだ。


内に何を抱えているのか?


それは、精神の純粋性以外にない。


それが、全てだと僕は思う。
神は細部に宿る
この言葉の本来の意味は、

あらゆる芸術で優先されるのはいつでも作品【全体】の価値である。

しかし、【細部】の集合体が【全体】を構成しているのだから、

素晴らしい作品というのは、

構成するディテール部分、ひとつひとつが完璧なものでない限り、

全体像としての【作品】が完璧にはなり得ない。




前衛建築家のミース・ファンデルローエ・・

或いは、美術理論家のヴァールブルクが言った言葉とされています。

 

要約すると、

「細かなディテールを疎かにしては全体の美しさは得られない」

「細かくこだわった細部こそが作品の本質を決める」




そんなところでしょうか・・。




自分的には、もう少し先の解釈がある。


それは、自分の感覚的なものであるし、

自分がモノ作りをして、リアルに感じる言葉だ。




神は細部に宿る・・・その細部は、

実は、目には見えない。




別に、具体的な細かい仕事ではない。


勿論、もの作りをする上で、

誰も気にしないような実に細かい部分まで、

徹底した作品というのは、

絵画やデザイン、映画、音楽・・なんでもあらゆる表現物において、

【神が細部に宿ったな・・・】と実感するし、

それゆえ、素晴らしい出来栄えとなるのだが、

そうした具体的なこだわり部分を

構成しているのは、

テクニックや手先の器用さが創りだしているものではなく、

深い精神性から細部に【繋がり】を与えているように思える。




精神性の矛先が、たまたま細部に宿るだけであって、

細かい部分の細工が素晴らしいこととは違う。


誰も気にしないような部分に、何故そこまで執念を燃やせるのか?


まさに、そこの理由の中にこそ、精神が宿るわけであって、

精神が宿ることを神が宿ると言い換えているにすぎない。


だから、見た目が同じように完璧であったとしても、

張りぼてと本物は、何か違う?と感じるのは、

そこに精神があるかマネごとなのかの違いだ。


だから、実に細かい細部にまで作業が施されているからといって、

神が宿っているわけではない。


ココロという目に見えない物質は、

ある種のエネルギーを持っていて、

不思議なパワーをものに宿す。


生命力を感じる表現というのは、

そういうものであって、

言葉では説明がつかないオーラを放っている。


それを感じた時に、言葉で説明がつかないからこそ、

【神が宿っている】という言葉を用いる・・・




僕は、そう思っている。