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入り込む余地
【ゆらぎ】という言葉が好きだ。

この言葉から感じる語感として、

何か不完全な中にこそ、感性の入り込む余地が残されていて、

それによって、新たな思考が生まれるようなニュアンスを感じる。

また、自然という大きな概念で観た時に、

宇宙全体が、その【ゆらぎ】の中に存在してて、

その【不確かなもの】の中に真実みたいなものが揺れ動いているような気がする。

言葉にすると抽象的で、具体性に欠ける感じにもなるが、

間違えなく自分の中にそういうイメージが在ることは確かだ。

自己の探求や人生に対する【問い】は、そういう不確かさがあるから、

永遠に求め続けるだろうし、考え続けることが出来るように思う。

それが表面化したものが、【自己表現】なんだと思う。

それは常に【過程】だ。

“今の時点で、自分はこう考え、こう感じているんだ”ということを

外側に出した結果だと思う。

だから、常にそれは【断片的】なものだ。

その今を切り取った時の【断面】を公開しているような感じだろうか?

自分が、ずっとそう感じていることは、

何度も文書化にもしている。

特に自分にとって、新しい気づきではないが、

今、改めて書く気になったのは、

ある人物の動画を見たからだ。

それは、樂家の当主 樂 吉左衞門。

あの千利休に見い出された樂焼の初代 長次郎の末裔にあたる人だ。

今で15代目で、450年もの間、一子相伝で樂焼茶碗を継承している。

その吉左衛門さんが、長次郎の作品について語っている動画なのだが、

その語り口調はとても穏やかで、しっかりと大地に根を張ったような

ゆるぎない佇まいと本質を見続けてきた人間の悟りの境地を感じる。

彼は、先代の父親でも祖父でもなく、見つめる先にはいつも長次郎がいる・・と語っている。

“なんの変哲もない茶碗なのです・・美しい色も無い、華やかな絵柄もない、かといって

面白い造形があるわけでもない。ただそこには、なんの変哲もない茶碗が在るだけなのに、

静かに、だけど物凄いエネルギーで、世の中に問いかけているように感じるのです。

人の中にある見栄や欲、凝り固まった常識、そういうったものに対して、

問いかけをしているように思うのです。

長次郎が創った世界というか、その造形は、不完全さ、ゆらぎ・・といったもので、

この感覚、概念は西洋にはないもので、日本人固有の【美意識】だと思うのです。

そうした造形は、なんとも言えず自然の中に在って、尚、溶け込む佇まいがあり、

凛とした美しさがある。

しかし、その不完全さ、ゆらぎの中に、我々が心を動かされるものがあって、

入り込む余地が残されているように思うのです。

完全無欠のものというのは、ある意味で思考停止状態を産むように思う。

誰もが手放しで絶賛し、素晴らしい!と称えるような・・そんな完璧なものに、

感性の入り込む【余地】は無いように思うのです。

・・・

多少、自分の言葉も混ざってはいるが、

概ね、このようなことを吉左衛門さんは、語っていたのですが、

語彙の選びやその思考の深さにとても感動した。

同時に、こんな素晴らしい世界があるんだな・・とも思ったし、

陶芸をはじめて、本当に良かったなと。

もし、あの時のきっかけがなければ、

同じ動画を観ても今と同じ感覚では受け止めていないような気がする。

この世界を知らずして、死ぬのは本当に惜しい。

心からそう思った。

・・・

僕は、料理に関していえば、

出来るなら完璧を目指している。

はじめから不完全な料理を創ろうとは、思ってはいない。

今、出している料理においても、

出来る限り、日々修正を重ね、

より精度の高い作品にしたいとも思うし、

将来的には、もっともっと完成されたものを創りたいと思う。

ただ、同時に思うことは、自分が自分の料理に対して、

思考停止になることはないようにも思う。

どんなに究極的に要素を削ぎ取って純化したとしても、

何か、自分の中で付入る隙というか、修正する余地があるように思う。

それは、他人には感じられないかもしれないし、

逆に、作り手側にそういった思考があるうちは、

他者も同じように作品の伸びしろを感じるのかもしれない。

これは、ある意味、精神論にもなるが、

その作品が面白いものか? つまらないものか? を分ける【差】というのは、

作り手の思考が【生きているものなのか?】という点なんじゃないかと思う。

一度、作り手側が、“これで、これはもう完成・・”と決めてしまって、

意識の無い中で、作業として何かを作ったとする。

技術的には完璧。出来上がったものの精度も高く、不備もない。

何処から見ても、なんら遜色なく、素晴らしい出来栄えだったとしても、

そこに【意思】がない・・・。

僕は、何度かそういうものに出くわしたことがある。

・・・

【入り込む余地】というのは、

誰もが思う未完成でもなく、不備があるものでもない。

作り手が、高い志しを持って、

どれほどに完成に近づけたとしても、

まだまだ先があるんだ・・という精神が生み出している【余白】の部分に思える。

まだ見ぬ、もっと素晴らしい作品を自らが追い求める姿があるからこそ、

時代を超えても尚、観る側に入り込む余地を与え、

作者が追い求めた思考の先を見つめることが出来るのじゃないだろうか?

だから、この世に完成した芸術作品というのは、存在してなくて、

あるのは、思考を持たない工場製品だけだ。

完璧を追い求める姿も、もしかしたら自然の中に在る【美しさ】とは、違うのかもしれない。

その考え自体が、傲慢で愚かなことなのかもしれない・・・

不完全な【ひと】が完璧・・などという言葉を安易に使うべきでもないし、

求めるべきでもない。

でも、人は、やはり何かを作る以上は、【完璧】を求めてしまう。

一体、何を求めて何を目指して【カタチ】にすることが正解なのだろうか?

そう・・・そういう自己の内面にある迷いや疑問が、

僕は、大切な気がしている。

僕は、だから飽きずにもの作りを続けていける。

いつ終わるか分からない人生だけど、

死ぬまでの間に、少しは先に進みたいと思い、その過程を楽しんでいる。
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