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自分の中に在るもの
先日、専門料理の取材依頼を受けた。

内容は、お任せコースの全容。

この企画は、前にもあったもので、

今回で3回目。

最初が、今旬の若手料理人が中心のもので、

次が、35歳以下の料理人。

今回が、我々団塊ジュニア世代で、

25年のキャリアで、円熟味を増した世代。

・・と言っても、自分が円熟期に入ったのかというと、

今、入り口にやっと立った感じもするのが正直なところ。

モノ作りは、何事もやり続けると、更に奥が見えてしまい、

今の自分の位置に愕然としたりするものだ。

・・

あまり他人に興味がない自分でも、

プロとして最低限、専門誌やsnsを通して

【今の流行り】は、把握している。

同時に、この先何処に向かうのか?ということも考えるし、

今の若手の実力にも関心する。

今を感じさせる勢いという部分においては、敵わない感じもある。

それは、世代差でもあるし、やはり新しい時代というのが、

もう来てて、その中心は、今の20代、30代だろう・・

では、そこで今の自分が何を作るのか?を考えてみる。

張り合って、今っぽいものを作るのか?

それとも、自分たちが見てきた時代を今風に再構築するのか?

または、もう一度リセットして、今感じているものを自然に表現するのか?

そう考えると、一番最後の考え方が潔いとも思うけど、

実際には、これら全てのミックスというのが、正直なところだと思う。

その中で、どんな今、どんな自分を皿の上で表現できるのか?というのがポイントだ。

これは、時代とか世代とかよりも、自分の場合は、

とても個人的なことに由来していると思う。

僕は、そもそもが独学だし、キャリアひとつ取っても、独特だ。

いいか悪いかは別として、自分は24歳でシェフになり、

駄作を20年もの間、量産してきた・・

そういう意味では、料理における自分の表現というものに、

飽きているというか、感覚が疲れているような部分もある。

長い間、ずっと吐き出し続けるいると、

ある時期に、それら全ての過去の作品が嫌になってもくる。

また、手掛けてみたい!と思えるような作品が殆どない。

その瞬間、その瞬間を追いかけてきて、

感覚的にその時、面白いと思えることをずっとやってきたわけだから、

そろそろ、もっと本質的な料理に向き合ってもいいころかな?と思ったりする。

多分今は、次の新しい世界に向かう狭間にいて、

自分の中での【スタンダード】を確立しつつ、

少しずつ新しい扉も開こうとしている最中だと思う。

ただ、昔のような思い切りというか、勢いはなく、

もっと、じっくりと考えて、構えている感じはしている。

かつての自分は、スペシャリテなんていらない・・と思っていたし、

自分には作れない・・というか、性格的に向いてないと思っていた。

自分の料理は、スナップ写真でいい・・と。

それは、毎日移り変わる【自分そのものを移す鏡】みたいなものだ。

それが、僕の料理・・だと思っていた。

でも、最近思うことは、やっぱり表現者であるなら、

ひとつでもいいから【残る作品】も創り出したい・・という思うも強くなってきた。

もっと言うと、【作品】と言えるレベルの完成度のものをこれからは、

作っていかないといけないと思うようになった・・
僕は、そもそも、寸分の狂いもなく、

完璧を追求した作品にあまり惹かれるタイプじゃない。

なにか、こう・・余白というか、隙というか、

そういう【ゆらぎ】のようなものがないものって、

見ててつまらないと思う。

それは、料理も同様に、完全無欠の料理は、素晴らしいとは思うけど、

同時につまらない・・という感覚もある。

それは、僕の個人的な好みの問題だと思うけど、

それこそが、僕の個性であるなら、

それが自分らしさだと思う。

じゃ、今、そういう感性を持つ自分が、

どういうものを良しとして、完成度の高い作品を作るのか?というと、

とても、矛盾を感じる。

その自己矛盾との葛藤の中で、生み出されるいる今の料理というのも、

ある意味、スナップ写真だ。

結局のところ、僕は完成に辿り着けない・・・。

そういう、ある種、混沌とした意識の中で、

今を描くしかない・・。

・・

具体的な話に移ると、今作る料理は、出来るだけピュアで本質的に美味しいと

思うものが多い。

何故かというと、今のムーヴメントがその逆を行っているから。

僕は、根っからのアマノジャクなので、人がしている後を追いかけたくない。

出来るだけ、人と違う道に進みたい。

これは、矛盾と悪あがきの両方でもあるけど、

意図せず、今の自分がそういう方向を求めたように思う。

今若い世代が創り出している料理のスタイルを冷静に見た時、

いつくかの考え方、何人かのシェフは、残るだろうけど、

それ以外は、淘汰される。

最終的には、本質的なものしか残らない。

それは、ものの考えであり、素材のピュアな味わいであり、

テクニックも理に適ったものしか、残らないと思う。

しかし、誤解されると困るので、説明すると、

時代を進化させるためには、絶対に淘汰されるものにも同様の価値があるということ。

その競争原理があってこそ、本物が生まれるし、それが残るのだから、

いずれ淘汰されるとしても、そこで生まれた様々な無駄や駄作は、実は無駄ではなく、

次に進むための重要なエネルギーだと思う。

我々は、既にその時期を経験して、通過してきた世代。

そして、どうにか生き残った世代でもある。

ここ数年、新北欧料理の影響で、発酵が注目され、

今のガストロノミーにおいても、

ひとつのムーヴメントになっている。

まさに、これなんかが、先のいい例で、

若い世代が、北欧で修行して、ある種の熱量を持って、

自分ならではの解釈で、面白い発酵料理を作り始める。

当然、いろいろな人がやる中で、

おかしな料理も沢山、世に出てくると思う。

それを見て、我々の世代が、よくない!と指摘すること自体がよくない。

僕の考えとしては、自分の中にはリアリティーがないので、

やらないけど、そういう挑戦を見て、実にいいなぁーと感じる。

だって、もしかしたら、その中で、誰かが発見した凄い発酵料理が

この先の未来に、スタンダードな技術として継承される可能性だってあるわけで。

その挑戦の連続こそが、新しい未来を常に拓いてきたと思う。

だから、同時に多くの無駄と駄作も必要なわけだ。

それなしに、いきなり100年以上も持ちこたえられるような

本質的な発見など、生まれるはずもない。

【ひとつの発見】というのは、多くの犠牲の上に成り立っているということだ。

・・

自分には、リアリティーがないので、やらない。・・と言ったが、

これは、発酵だけのことではない。

発酵に関しては、別の問題として、僕の好みとして、

フレッシュ感のある味覚が好きだからやらない・・という考えもあるし、

今の時代の恩恵として、流通や保存技術が高度になり、

瑞々しい新鮮な食材が手に入る世の中で、

わざわざ、ピュアじゃない味を作り出すことにあまり意味を感じていないのも理由だ。

これは、否定ではなく、あくまで個人の考えと嗜好の問題。

長い人類の食の歴史の中で、

発酵や熟成を最大限に利用し世界中の人が

【スタンダードな美味しさ】として評価されたものは、

ワインとチーズと生ハムぐらいだろう。

それ以外にも、多くの発酵食品もあるが、

民族間の中で、留まっているものが殆どだ。

それらに比べ、ワイン、チーズ、生ハムは、

加工前の素材の味わいを遙かに凌駕する美味しさと

世界基準の味覚として固有の価値がある。

我々、日本人が誇る、味噌、醤油などが代表とする、独自の発酵文化があるが、

たとえ素晴らしい発明であっても、

今の時点では、世界のスタンダードには及ばない。

しかし、この先に未来は、よりグローバル化された味覚が、

民族や国境の垣根を越え、様々な味覚の融合がなされるであろう。

それは、また別の話だが・・・

・・

話が逸れてしまったが、リアリティーの話に戻すと、

僕は、自分の中にないものは描けない・・という感覚がとても強く、

それは、他のシェフよりも強烈にあるように思う。

最近も、京都で知り合った人から素晴らしいタケノコを送ってもらっているが、

やっぱり、何処か自分の中でリアリティーがない・・

何度か料理を作っているうちに、手が付けられなくなってくる。

この感覚は、どう説明すればいいのか分からないが、

自分の中にないもの・・・という言葉でしか説明しようがない。

同様に、甘鯛やノドグロなんかも同じだし、ホタルイカも同じ感覚だった。

他の店で食べて、感動したり、地元にないものなので、

興味本位で使ってみたり、純粋に食材として素晴らしいので、

使いたいと思ったり、理由は様々だが、

感覚的に、自分の中にないな・・と感じてしまうと、

1度きりで、もう使わなくなってしまう。

これは、僕と料理の関係が、単に仕事として捉えているものじゃないからだと思う。

例え、素晴らしい食材で、とても美味しい料理が作れたとしても、

自分の中にないものは、自分の料理じゃない。

自分の料理じゃないもので感動されても、実はあまり実感が沸かない。

そういうことを繰り返すうちに、使う食材がどんどん限られてきて、

ワンパターンになり、嫌気が刺す。

だから、また懲りずに真新しい食材に手を出しては・・・を繰り返し、

やっぱりやめようと思う。

自分の作品として、残せるものをもっと深く追求したい・・というのが、

今の率直な思いだ。

突き詰めると、やはりシンプルなものが増えてきてしまう。

味覚センスの問題だとも思うけど、

とてもシンプルな調理法と素材だけの料理は、

作り手の思考が浅いと、ただの旨いもの屋か高級居酒屋みたいになってしまうけど、

色々なプロセスを経て、そこに辿り着いたものには、

品が備わっていると思う。

これは、精神論なんかじゃなく、そういう料理には、

その素材だけで、十分に複雑で奥行きのある味わいがあり、

僕には、そちらのほうがよほど強烈な感動に繋がる。

究極の食材である必要もなくて、

ごくありふれた普通の食材でも、よく吟味し、適切な処理をして、

最高のタイミングを図れば、見事な料理になる。

僕は、基本的にずっとそういう料理を追いかけながら、

飽きないように、たまに刺激的な冒険をする・・それぐらいのバランスが丁度良い。

・・

結局のところ、人は何か表現するとき、自分にないものなんて、

はじめから形にできるはずもないし、そういう欲求も沸かないものだと思う。

そこは、ビジネスとして流行りの商業音楽を量産して沢山お金儲けができる人と、

自分の中にあるものを表現して音楽を作る芸術家との違いと同じで、

僕は、無理して前者にもなれるが、後者としてしか生きられない性だと思う。

ただ、自分の中にリアリティーがあるからといって、それが売れるとは限らない。

埋もれるだけのものもあるだろうし、センスの悪いものは、ただの自己満足で終わる。

感覚的に価値があって、同時に身近な【通訳者】がいる人は、売れるかもしれない。

また、それも運だろうし、時代とのマッチングでもある。

好きな表現を振り切ってして最後までそれを貫き通せるなら、

僕は、そんな生き方でいいとも思う。

料理は、そういう意味でひとつの自己表現であるし、生きる糧でもある。

ちなみに、余談だが、

リアリティーのある作品って、

かつてピカソが言ったように、【君にパイプを加えた男の絵は描けない、
何故なら、君はパイプを吸ったことがないからだ】の言葉が印象的だ。

恋をしたことのない人が、恋愛小説を書けないのと同じで、

僕は、自分の人生の中に無いものは、

やはり自分の色として使いこなすことが難しい。
・・

具体的な料理の話をすると、

大胆で新しい組み合わせの料理は、

それほど日本人の特性に合わない気がしている。

それは、食べる側も作る側も、両方に言える。

そういうタイプの料理は、欧米人のほうが上手だ。

今の時代、世界が狭くなり、日本人でも実力さえあれば、

海外で注目を得ることが出来る。

せっかく、そういう時代が来たのだから、

不得意というか、持ち合わせてない武器で戦うよりも、

日本人の特性を生かした料理スタイルで勝負したほうが断然有利だし、

意味がある。

だから、グローバルな視野を持ちつつ、

高度で繊細なテクニックを駆使して、

素材感に溢れ、透明感のある料理を作ることが、

日本人の作るガストロノミーの未来を切り拓くように僕は思っていて、

最終的には、純度の高い料理が残ると思う。

ガストロノミーは、美食の探求だ。

優秀な日本人シェフは、あらゆるジャンルの最高峰の技術を持ちつつ、

日本料理の使いたい技術、考え方だけを抽出し、

日本料理にはない、ピュアだけど、アタックの強い美味しさを

創り出すことができる・・可能性がある。

それは、おそらく日本人以外には、難しい・・・

欧米人の調理のプロセスを見ていると、

どうにも雑なシェフが多いし、ライフワークやものの捉え方も、

我々と大きく異なる。

太い線やカラフルな色を大胆に引いて、

周りを驚かすことは得意だけど、

繊細な描写で、余白にすら意味を持たせ、

その向こう側にある余韻を感じさせるような・・

そういう感性ではない。

これは、抽象的な例え話にも聞こえるが、

僕にとっては、ごくストレートに伝えているつもりだけど、

これもまた、日本人的な感性かもしれない。

・・・

僕は今改めて自分の料理について考え直しているし、

真摯に向き合おうともしている。

ひとつの料理を作る上で、

使用するアイテムひとつひとつをより吟味し、

何処まで適切な処理をするべきか考えている。

僕の料理の中に【蝦夷アワビ】を使ったものがある。

もう、4年は続けているだろうか?

コンスタントに作る続けている料理は、アミューズの【森】という料理と

このアワビしかない。

使う材料は、4つ。

・アワビ ・塩 ・昆布 ・水

全て自分の中にある素材だけで構成されている。

この料理は、昆布出汁に切ったアワビを落として終わり。

それ以上でもそれ以下でもない。

なのに、こんなに飽きっぽい自分が、

これを作り続けられるのは、

その中に【自分】を感じ、そのシンプルな素材と工程、

最終的な味覚の世界に、意味を感じているからだろう。
料理人になって、25年。

これからの料理人生があと15年。

60歳までを目途に考えたとして、

この先の15年は、意味を重ねていきたいと思う。

その中で、若いころのようなエネルギーと視点を持って、

何か新しい扉を開くことが出来たなら、

とても有意義で幸福なことだと思う。

自分は、いくつになっても探求者でありながら、

冒険者でいたい。

チャレンジする精神の中にこそ、創造性があり、

創造性の中にだけ、表現物としての価値がある。
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