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伝えたいこと
最近、映画を見てて、そのエンディングに流れる曲を聴いて、

あることを感じた。

歌が上手いわけじゃないけど、

この曲は、この人じゃないと

こういう伝わり方はしないだろうな?

そう思った。

まぁ、とてもありがちな話です。

・・・

全ての表現には、

意図すること。

つまり【伝えたいこと】があるのです。

まだ、卵にもなっていない、

意識の中で形にならない感情が浮遊しているような・・・

そんな状態から、細かい糸を繋ぎ合わせていくような感覚で、

少しずつ形にしていく作業。

それが、表現におけるプロセス、つまり【過程】です。

絡まった糸を解いては、繋ぎを繰り返し、

苦心の末、やっと【表現物】という最終的な形になる。

その過程を経てこその最終的な表現に繋がっているわけで、

過程を知らぬ者、

或いは、

その過程を感じ取れていない者が、

いくらオリジナルそっくりのものを

表したとしても、

なんの魂もない、張りぼてにしかならない。

例えるなら、ダヴィンチのモナ・リザを

高精度のコピー機でスキャンしたものと変りなく、

そこには、何一つ価値もない。

模写や写し、カバーなどの作品も多く存在するが、

8割は、コピペと大差がない。

ただ、オリジナルの背景にある【過程】を汲み取る才能がある場合は、

別の次元の作品になる。

・・・

作者は、何を伝えたかったのだろうか?

僕は、殊更表現というもの全てに対して、

その1点が全てであると思っていて、

あらゆる表現物のそこをどう読みとるかが、

それを堪能する上での醍醐味だと思っている。

だから、時々出くわす【過程の無いもの】に当たってしまうと、

なんとも言えず、悲しい気分になる。

ある意味それは、【邪魔にならないもの】として、

今の世の中的には重宝がられる場面もあるだろう。

例えば曲であれば、BGMには最適だし、

例えば料理であれば、会話中心で適当に腹を満たすには丁度よい。

要するに【目的は別にある】という場面だ。

適当なカバー曲のBGMが流れ、

ネットや本でみた料理をアレンジして出され、

壁には、印刷されたインテリアのような絵画が飾られ、

雑貨屋で買った適当な小物が置かれている・・・

そこには【伝えたいこと】は何もない代わりに、

邪魔になるものがないということで、

ある一定の心地よさがあるかもしれない・・・

・・・

何かを生み出すには、

必ず【過程】がある。

今の世の中は、どうにもソコが抜け落ちているように

思えてならない。

表層部分だけを切り貼りし、

そこに一喜一憂しているように感じてしまう。

モノ作りや表現といったものの中にあったはずの、

【精神】が見えてこない。

逆にそんな重々しいものは、邪魔な世の中なのだろうか?

邪魔にならない、気軽で手軽なものを

使い捨てする世の中。

伝えたいことなんて、必要ない。

その過程も必要ない。

なんとなく、その場の流れで【いいね】があればいい。

なんとなく、その世界の中で【映え】ればいい。

表面にあるものが全てで、

表面だけの日常が全て。

その時代を誰かが生み出し、

その時代の中で育った若者が

次の時代を生み出す。

この先の未来にどんな【表現】が生まれるのだろうか?

プロセスを省略した表現の中に、

どんな感動があるのだろうか?

僕は、その時代の中で粛々とその過程を見続ける他ない。

それが、今の僕が伝えたいことなのかもしれない。
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