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許容する社会

近年、テレビや週刊誌を騒がせる話題は、

概ね同じようなレベルのことで、

やってることと言えば、

社会という集団が、

揚げ足をとって、動けなくなるまで徹底的に潰す・・

そんなことばかりだ。

片やイジメの問題などがあれば、

それはそれで大騒ぎし、こぞってメディアが取り上げるが、

社会という集団の中で、同じように

その時【ターゲット】となった芸能人をイジメている様子を見ると、

本質的には、子供のイジメとなにも変わらないような気がする。

それは、1対1の関係性の中では出来ないことを、

集団という匿名性の中では出来てしまう、人の弱さと残酷さと

無責任さであり、イジメの中にある本質だと思う。

結局、大人のイジメは子供以上にタチが悪く、

ある種の正当性を武器に、

“相手が悪いことをしたから、徹底的に潰しても悪くないんだ・・”

というクソみたいな正義感のもとに行われているような気がしてならない。

目に見えない集団というのは、個々の罪悪感を薄め、そして同調し合い、

何か少しでも落ち度があれば、一斉にターゲットを追い込む【怪物】と化す。

こうしたことは、当然、大昔からあった人間の性質でもあると思うが、

最近の世の中は、そのえげつなさと幼稚さが際立っているようにも思う。

その要因のひとつは、ネット社会の容易さにもある。

誰もが、ほんの数秒で気軽に意見できるツールであり、

また、その発言者の責任も問われない。

一方的に意見を言うだけ言って、あとは知らんぷり。

更には、そうした心無い言動に対して、

無責任に同調し、拡散し、実態のない【モンスター】となる。

こうしたことは、国全体、社会全体でも起きれば、

当然のように、小さなコミュニティーでも起きる。

本当は、何が正しいのか?

本当の問題は、どこにあったのか?

を議論し合わないままに、

【手頃な犯人】を釣りし上げ、

小さな綻びを見つけ、一斉に放火する。

これらが、子供のイジメと一体何が違うのだろうか?

・・・

誰もが皆、社会の中で生きていて、

その中には実に様々な価値観が存在している。

個々の特性が違うということは、

当然ながら社会において、個々の役割も違う。

単調で平凡な日常であることと引き換えに、

安定と平和を望む人もいて、

そうした人が、非日常や夢を見る為に、

煌びやかな芸能の世界やスポーツの世界、

様々な芸術や娯楽が存在していて、

その夢を与える側というのは、

ある意味、ごく一般的な社会性がない人が多いかもしれないが、

人とは違う特殊な才能を持っている。

その人の役割として【普通ではない世界】を社会に供給し、

世の中のバランスが保たれているように思う。

ドキドキ、ハラハラ、魅力的で感動的で、何か退屈な日常を忘れさせてくれる・・

そんな【何か】を大衆は、いつの時代も求めてきたはずだ。

そうしたことを求める一方で、

【常識的であれ】
【倫理と道徳】
【社会性とは何か?】

そんな事を求めている今の世の中というのは、

矛盾に満ちているようにしか思えない。

そんな風に常識的で社会性があるのなら、

はじめから、特殊な世界に入っていかないだろうし、

他がダメでも、ある事であれば、卓越した能力があるからこそ、

その人は、魅力的であるはずだ。

身勝手な民衆は、自分たちで、どんどん世の中をつまらなくしておいて、

“今の世の中はつまらない”と平気で言う。

“昔は、もっと個性的な人がいて面白かった”という割に、

自分たちは、子供に対して、

枠の中、親の中、社会常識の中に、閉じ込めようとしているじゃないか。

・・・

日本は、いつの間に、こんなにもイビツで、

許容範囲の狭い世の中になってしまったのだろうか?

何故、少しでも落ち度のあるものに対して、

拒絶反応をするような社会になってしまったのだろうか?

かつて、アインシュタインとフロイトが手紙のやり取りで、

こんな会話をしたと聞いたことがある。

“人類がこの先、戦争を選択しない世界は来るのだろうか?”という

アインシュタインの問いに対して、

フロイトは、“人間の本質からいうと、それはありえない。

但し、文明が進歩し、社会性が成熟したならば可能性がないわけではない”と。

フロイトの言う、その社会性の成熟とは何か?

それは、【許容する社会】ではないだろうか?

異なった文明、異なった宗教、異なった人種、異なった価値観、

そうした自分たちとは異なる様々な価値観を

どうやって受け入れて、共存していくか?

【遺物を排除する】

という性質は、種の保存からくる遺伝子により、

あらゆる生物に組み込まれている。

自分の種を残すためには、

自分たちとは異なる種を滅ぼさなくてはいけない。

そうした基本的な競争原理があったとしても、

ヒトという種は、その他の生物とは違い、

【理性】というものを与えられた。

ヒトが、もし生態系のトップに君臨する有能な生物であるならば、

ヒトがヒトであることの証とし、

その【理性】により、

他の生物にはできなかっただろう、

価値観の共有、或いは、

共有はしないが、

否定せず、受け入れる・・ということが、

もっとも望ましい未来であろうと思う。

ほんの些細な、失態を責め続ける社会。

なんでもハラスメントにしたがる社会。

意味なく過剰に敏感になり過ぎている社会。

そんな今の社会構造の中において、

個の特性を尊重し、認め合い、受け入れるような

社会が訪れる気がしない。

もし、この先にそんな未来を求めるのであれば、

今起きている、クソみたいなゴシップで騒ぎ立てることをやめ、

もっともっと大切なことに目を向け、議論すべきだと思う。

まずは、メディア自体の在り方を変え、

それ以上に、それを求めない個々の成熟こそが、

未来を変えていけるのではないかと思う。
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