]]>
2005年のオープンから5年後の2010年に、
それまでのスタイルをやめ、
新しい店作りをイメージするようになった。
2011年に、30坪だった店舗を100坪のレストランにし、
リニューアルオープンした。
当時、37歳。
とても大きな借金を抱えてしまったのですが、
それでも、当時は何処か浮ついた気持ちもあり、
どうにかなるように思っていました。
そのリニューアルオープンの際に、
僕の恩師である陶芸家、
そして今は、北海道陶芸会の会長でもある
中村裕さんから
お祝いのお手紙を頂きました。
・・・
【 “心に描けない事は、形になりませんが、
心に描いた事は、いつか形になる。”
可能性があります。
その可能性を実現出来る“器”は、
一体なんでしょう? 】
他でも何度かこの手紙の話をしたこともあり、
この手紙は、生涯手元に置いておく大切なものです。
文字の美しさ。
内容の深さ。
流れるような簡潔な文書。
全てにおいて、僕は心に沁みたのですが、
何より、先生の心の温かさとその深さだと思うのです。
実は、僕がこの手紙を大切にしている理由が別にもあり、
当時の僕は、この手紙に勇気づけられたというよりは、
【見透かされている・・】
と感じてしまったのです。
先生は、僕に対して苦言を呈して、
この手紙を書いた・・ということではなく、
純粋な想いであったことは明らかなのですが、
僕自身が、ふわふわと浮ついていたのですね。
今までを一新して、新たなことに挑戦したい!という
思いもあれば、心の何処かで根拠なく、上手くいくだろう・・
そういう傲りにも似た邪念があったように思うのです。
蓋を開けてみれば、御覧の通り。
それからというもの、上手くいかないことばかり。
ただでさえ膨大に膨らんだ借金も、
返せないので、更に借金を借金して返す・・という
自転車操業。
新しいプロジェクトにも手を出すが、
これもまた上手くいかない。
社内でも問題が絶えない・・
いつしか、色々なことが嫌になり、
2016年にリセット。
もう一度、ひとりで始めよう。
そう、思ったのでした。
その時、思い出したかのように、
この手紙を読み返しました。
【その可能性を実現出来る“器”は、一体なんでしょう?】
心にイメージを描き、それを作るところまでは、出来たが、
それはただの空っぽの“器”だった。
そして、その“器”の本当の意味は、当然、自分自身を指す。
僕自身が大きな器として成長しない限り、
張りぼての大きな建物は、意味のない“器”に過ぎない。
僕は、初めてこの手紙を読んだとき、
直観的にそれを感じてて、
そして、時を経て、改めて深くそう感じたのです。
あの頃の自分には、もう後に引けない思いがあり、
突き進む以外の道がないように思い込んでいました。
・・・
長い前置きになったのですが、
そして、また今、僕は新しいことに向かおうとしています。
年齢的に、これが最後の挑戦になるかもしれませんが、
今出来ること。
今したいこと。
そんな“今”を最大限に表現した空間を創りたい。
さて、どんな空間が良いのだろうか?
レストランという枠を壊したい。
もっとエキサイティングな空間が欲しい。
そんなことも考えた時期もあったのですが、
2周回って、
今は、この上なくレストランらしいレストランを作ろう。
そんな気分です。
僕が今感じている“時代性”からくる感覚でいうと、
様々な形式を経て、正統派の洗練された空間がベストな気がしています。
当然、そうじゃないお店も色々とあって面白いので、
全ての人に当てはまる事ではないけど、
僕的には、それがいいように感じています。
形式みたいなものは、マンネリが続けば、
壊したくなるのが世の常。
壊した中に、爆発的に面白い表現も生まれる。
そこに追随する形で、更に大勢がそれを追いかける。
そうなると、でたらめなものも沢山世に出てくる。
まがい物で溢れかえると、収拾がつかなくなる。
今のように超情報化社会になれば、
混沌の一途をたどる。
まさに今、僕が感じている社会やこのレストラン業界は、
そんな時代に来ている。
そうした中において、清く全うで正当な空間というのは、
ある意味、しっくりくる。
熟成と洗練を得て、僕が今イメージしている形とは、
オーセンティックで上質な空間なのです。
豪華さや贅沢感の定義や感覚は、時代の中で、
変わって行きますが、
今の時代と呼吸しながら、
普遍的な美を追求した空間を描きたいと思っています。
・・・
【その可能性を実現出来る“器”は、一体なんでしょう?】
この文のあとには、こう書かれてました。
“自由な心と挑戦する勇気”
自分の足元をしっかりと見つめ、
自由な心で、新しい未来を自分の手で掴みたい。
今、そう思っています。
何も案ずることはない。
自分の知る限り、人生は苦難に満ちていることに変わりない。
だから、何も心配はいらないと思うよ。
心配したところで、
苦難から回避など出来ないのだから・・・
だから、何も案ずることはない。
何も心配はいらない。
そして、上手に人生を生きようとなんて思う必要もない。
むしろ、若いうちは出来るだけ悩んだほうがいい。
今の自分に満足なんて出来ないのだから、
成長しようと思えば、悩むことは必然だ。
もし、そこで何も悩まないようなヤツは、
5年後も10年後もなんの成長も変化もないよ。
ただ、細胞が劣化しただけのことだよ・・
・・
仕事を選ぶ時のポイントは、
金や待遇じゃない。
実は、金と待遇は、自分次第でどうにでもなる。
今の自分への評価が低いのは、当たり前だ。
だってまだ、なんの役にも立ってないし、
なんの結果も出してないのだからね。
でも、明日や1週間後、半年後、1年後の自分は、どうだろう?
もし、自分が成長し、人の役に立つようになり、仕事の中で結果が出れば、
金と待遇は変わる。
そう、自分の問題であって、
変えることの出来ないことじゃないんだよ。
でも、社長の人格や会社の方針は、
自分の努力じゃ、どうにもならない。
だから、仕事を選ぶ時のポイントは、
社長の人柄と会社の理念だ。
将来の自分にとって価値のある時間を過ごせるかどうか?
自分という人間を消耗品ではなく、
一人の人間として、きちんと評価してくれるか?
若い人間の労働力を足元を見て搾取しているだけの人間や会社だって、
この世の中には、沢山存在する。
そういう社会の中の消耗品にはならないでほしい。
だから、その為にも自分の意思を強く持ってほしい。
はじめは、誰しもが自信もないし、能力もなく、なんの役にも立てない。
だけど、それとこれとは話が違うんだよ。
自分の立場はわきまえるべきだけど、
自分の考えは、きちんと伝え、そして、その意思を曲げないように。
それは、責任は取らないけど、自分の主義、主張だけはする人とは違う。
仕事の中で、きちんと責任は果たさないといけない。
その中で、自分として言うべきことは相手に伝えるべきだ。
社会の中では、結果が全てだ。
若く、未熟なうちは、なかなか結果が出ない。
だけど、素直さや謙虚さ、情熱や愛情は、全ての結果に結び付く。
もし、それが備わっているなら、
何も案ずることなどないよ。
それこそ、お金では買うことができない。
だから、才能だとか、自信なんかは、なくていい。
まずは、素直な心。
今と真剣に向き合えるか。
更に、人に対して誠意を持って、きちんと愛情を傾けることができるなら、
それだけで、十分すぎるほどに、十分だ。
この世の中の仕事で、
それを擁しても、結果が出せない仕事は、
特殊能力を必要とするような世界だけであって、
殆どの仕事は、それだけあれば十分。
あとは、明るさと健康。
健全な精神と体さえあれば、何にだって立ち向かえるし、
どんな困難も乗り越えていける。
今からなら、殆どのことに挑戦だってできる。
若さは、刹那であり、純粋で、もろく、
儚いものだけど、
可能性に溢れているじゃないかっ。
それも、またお金では買えない。
どうか、今という時間、
【若さ】という素晴らしいものを大切にしてほしい。
・・
知らない場所で、ひとり、初めて暮らすことは不安だらけだと思う。
当然、最低限度の生活を築く上で、お金は重要だね。
お金は、ある程度の安心を買うこともできるかもしれないし、
自信や豊かさにも繋がる。
貧困は、妬みや卑しさ、時に犯罪を産む温床にもなり得る。
だけど、そこまで極端な生活以外は、
最低限の収入で、どうにか生きていけるものだよ。
その収入に合った暮らしをすればいい。
それは、本当の意味での貧しさとは違う。
自分に対する貯金だと思えばいい。
そうはじめから考えることが出来る人は、
時間に対して、投資が出来る人。
今、自分に蓄えるべきは、貨幣ではなく、
精神であることに気づけるかどうかだよ。
今、手元に貨幣がないだけであって、
未来の自分への貯金をしていると思えばいい。
その変わり、しっかりと意思をもって、
毎日を真剣に、
毎日を大切に生きて欲しい。
・・
人生は、なかなかに難しいものだね・・
なかなか上手くいかない。
思うようにいかない事の連続かもしれない。
そして、誰かが言ったように、
【人生は一度きりの実験のようなものであり、
リハーサルの無い、ドラマのようなものだ】
そう、やり直しはできない。
一度決めた道をタイムスリップして逆走することはできないよね。
だから、迷ったり、
時に臆病にもなったりする。
そして、決めたあとも、
本当にこれで良かったのだろうか?と
思い悩んだり、後悔することだってあるかもしれない。
だけど、それも仕方のないこと。
やらなかったよりは、まだマシだよ。
少しでも前に進めたほうがいい。
自分の意思で決めて、
自分の進もうという気持ちに素直に向かったなら、
もし、よい結果が出なかったとしても、
それでいいじゃないか。
安全な道なんてない。
少なくとも、自分は知らない。
いずれにしても、
安全な道などないなら、
自分の好きな道を歩いたほうが人生は豊かであり、
楽しいものだ。
そう、沢山困難が待っているけど、
時々、本当に素晴らしいと思える時がある。
自分は、その素晴らしいと思える瞬間、
心から幸せだと思える瞬間が、
年齢を重ねるごとに増えてきたよ。
そう、本当に少しずつ少しずつ増えてきた。
ゆっくりと右肩上がりの人生は、
いいものだよ。
だから、何も焦る必要もない。
今の自分が嫌いでもいいし、自信がなくてもいい。
人に誇れるものがなくてもいい。
もし、それが今の自分であるなら、
これから少しずつ補っていけばいいだけのこと。
少しずつ、
前の自分よりも、今の自分のほうが好きになれたら、
それは、幸せなことだと思う。
・・
この先、何か困ったことがあれば、
いつでも、何処にいても
自分は、そこに行く。
全てを投げうってでも、
助けようとするだろう。
それが、普通の親というものだよ。
ただ、困難に立ち向かうことの邪魔はしないようにする。
残念なことに、
それは、手助けができない。
してはいけない。
たった一人で戦うしか方法がない。
きっと、この先にそういうことがある。
誰の人生にも、それが待っている。
勿論、立ち向かわずに、
逃げることだってできる。
時に、それも必要なことかもしれないね。
ただ、逃げてばかりの人生には、
それなりの未来しか待ってないものだよ。
お金だって同じこと。
楽して稼ぐ方法は、探せば沢山あるよね。
でも、それをする人としない人で分かれるでしょ。
しない人は、その先の結果を知っているから手を出さない。
貧乏暮らしがキツくても、
未来に投資する方を選択する。
苦しい事やツライ事というのは、ある意味人生の投資だよ。
もし、それを今自分の中で解決できたなら、
未来の自分には、もうその問題は困難ではないでしょ。
もっと先に進むことができるね。
そうやって、どんどん高いほうに向かって進んでいくものだよ。
選ぶのは自分。
何処で満足するかも自分次第。
自分の選択次第で、未来は常に変化していくものだよ。
・・
若い頃の自分には、自信なんてこれっぽっちも無かった。
自分が何かを成せるなんて、思いもしなかった。
ただ、ひとつだけ人とは違うことがあった。
それは、自分という存在に気づいたこと。
自分と他人は、違うでしょ。
それが、個性。
人と違うのに、
人を妬んだり、羨ましいと感じたりしている自分が、
バカバカしいと思ったよ。
そのうち、そんな事も考えなくなった。
自分にしかないものってなんだろう?
自分に何ができるのだろう?
そう考えてばかりいた。
その答えは、未だに分からない。
19歳で社会に出て、
25年も経つけど、
未だ、考えている最中だよ。
それぐらい、難しいことでもあるし、
きっと、人生が終わる時、
こう思うはず・・・
【長いようで、短い・・色々なことがあった人生だったけど、
結局、自分に何ができるのだろう?と考え続けたまま終わってしまったな・・
その過程自体が人生であって、それでも自分には、自分にしかない人生を送ることができたし、
辛いことがあった以上に、沢山幸せなこともあったな。
まぁ・・自分の人生としては、これで上々だろう。
満足したとは言えないけど、
十分に幸せだったな・・
十分過ぎるほどに、恵まれた幸福な人生だったな・・
感謝の気持ちでいっぱいなまま
この人生に幕を下ろせる。
ありがとう・・・】
まぁ・・そんな風に思って自分の人生の終わりを迎えるのかな?ってね・・・
人それぞれに、
その人なりの人生が待ってる。
それを懸命に生きるしかないよね。
だから、何も案ずることなどないよ。
何も心配なんてしなくていい。
堂々と自分の人生を謳歌してほしい。
寧々の人生をいつも見守っています。
愛する父より。
]]>
今年をどんな一年にしようか?
毎年、年の始めに、ふと・・そんなことを考える。
最近、巷で【君たちはどう生きるか】という本が売れているらしい。
まだ、読んではいないが、
この80年も前に書かれた本が今、漫画というフィルターを通し、
多くの人に共感を得ているというのは、
それだけ【今の時代】の先行きに不安があるからではないのだろうか?
・・・
今年をどんな一年にしようかと考えたとき、
今まで仕事中心だった生活を少し見直してもいいんじゃないかと思う。
仕事を精一杯することは、特に頑張るとかそういうことじゃなく、
当たり前にしなくてはいけないことになっているので、
今更、何か心に決める必要もない。
それよりも、【これからをどう生きるか】ということに
少し意識を向けたほうがいいように感じている。
それは、先の本【君たちはどう生きるか】が売れている理由と同様に
今、世界全体が進んでいる【未来】に対して非常に不安でならない自分がいるからだ。
何か本質的な【幸福】を置き去りにしたまま時代が加速しているように見える。
“今、進んでいる未来に本当の幸せがあるのだろうか?”
それをしっかりと検証しないまま、ある特定の人だけによって実行されている感が否めない。
・・・
人は、幸福を追求する生物だと思う。
誰もが皆、それを望む。
その為に頭を使い、何百年、何千年、何万年という歳月をかけて、
人類は、進化してきた。
より豊かな毎日を得る為に、
進化してきた歴史であり、
言い換えれば、それは進化の歴史でもあるが、
戦争の歴史でもあるように思う。
かつて人類は、太古の時代から争いを繰り返してきた。
より良い生活を得る為に、
他の部族を潰し、他の集落から土地を奪い、
自らの豊かさを確保してきた。
文明が築かれても、同じように、
大きな力を持った文明は、非力な小さい文明を呑み込んで
武力で制圧し、吸収し、更に大きな力を得て、
それが【豊かさの象徴】であるかのように力を誇示した。
そして、国家が築かれても同じだ。
小さな国を侵略し、植民地にし、原住民を奴隷にして働かせるか、
皆殺しにするか・・・
先の本が書かれた時代背景というのは、まさにその頃で、
日本が江戸幕府を解体し、明治時代が始まり、
近隣にある国に侵略を進めようとしていた時代だ。
“それが本当に豊かさであり、幸福なのだろうか?”
そんな末端国民の声は、閉ざされたまま、戦争に突入する。
日中戦争、日露戦争、第二次大戦へと・・・
国土を広げ、金を儲け、力を誇示し続けることが、
本当に望んだ豊さだったのだろうか?
・・・
敗戦した日本は、次に高度成長期へと向かっていく。
次に求めた幸福とは、世界一の経済大国“ニッポン”
まるで敗戦が夢であるかのように、
日本は復活した・・・かのように見えた。
過去の悲惨さも、同時に過去の過ちも忘れ、
また、あの頃のように何も検証しないまま時代は加速していった。
そして、バブル期が訪れ、すぐに弾けて消えた・・・
2000年・・21世紀の幕開け。
我々は、21世紀に何を夢見ていたのだろうか?
子供のころ、21世紀と言えば、手塚治虫のアニメに象徴されるような
煌びやかで美しく、豊かな世界を想像し夢見ていた。
しかし、現実で起こったことと言えば、9.11のテロだった・・・
何度も繰り返されてきた略奪の戦争によって世界の大国となったアメリカに向けた報復だ。
大きな文明が小さな文明を滅ぼしてきた歴史がここにきて限界に達したのではないか?
アメリカは、自分たちにとって都合の悪い国を制圧することを正義と置き換えた。
【テロとの戦い】 【テロに屈しない】
しかし、テロリスト対して、されたこと以上の暴力によって
【屈する】ことを要求している。
何故、テロリストが生まれたのか?
そこに目を背けたまま、新しい戦争を起こし、
次のテロを生む温床を作り出している。
これらが、果たして人類にとって進化であったのだろうか?
これらが、果たして我々が望んだ豊かさだったのだろうか?
権力と富は、一体なにを生んだのか?
いまだ人類は、権力と富を得る為に戦争を繰り返している。
・・・
君たちはどう生きるか・・・
まさに、今・・僕たちはどう生きるか?を考えなくてはいけない。
過去の過ちを反省も、検証もしないまま、
また、同じように空虚な時代を作ろうとしている。
本当に望むべき未来を皆が空想したほうがいい。
そして、もっと真剣にそれらを具体的に提案したほうがいい。
ヒトが幸福に生きることとは何か?
それらをひとりひとりが真剣に考え、【どう生きるか】という問いに
向き合うべきだ。
今、また過去と同じように何の検証もないまま、
テクノロジーの進化が加速している。
これは、もう誰も止めることが出来ない。
人工知能の進化は、まさにその核となることに間違えない。
我々は、本当にソレを望んだのだろうか?
人類にとっての【進化】とは、本当にそういうことなのだろうか?
自分は、そうは思わない。
決して止めることも、拒むこともできないだろうが、
僕は、それを本当の進化とは思えない。
この地球上で唯一の人である【ホモ・サピエンス】という極めて優秀な種の最終的な進化が、
もし、この程度であるなら、延長上にある未来は、【種の集団自殺】になると思う。
僕の目に映る今の世界を牛耳っている人々が、
人工知能というテクノロジーを人類のために有益なものとして
使用するように思えないからだ。
この世界を動かしているのは、金と権力だ。
金と権力を手にした人間には、終わりがない・・・
とことんまで貪る。
世界中の全ての金を貪ろうとする。
人工知能は、その道具に成り下がることで、
次の争いを生み、
その争いは、全人類を巻き込む。
とても複雑な未来型戦争は、とことんまで貧富の差を2極化するだろう。
手段が複雑なだけで、やってることは太古の人類と何も変わらない。
【自分ファースト】の極みだ。
僕が思う人類の進化とは、
ホモサピエンスが唯一持ち合わせた【創造性と知能】の進化だと思う。
今の時代の価値観を覆すためには、ドラスティックに社会構造を変革し、
新しい幸福の仕組みを提案することだ。
そして、知性の行きつく先は、
2度と戦争を起こさない・・ということに気づくことだ。
それこそが、野生動物にはない精神であり知性であるように思う。
種の保存という本能によってしか行動理由のない動物と違い、
人は、長年の進化によって地域全体、国全体の和平を保とうという、
極めて理性的な考えを持つようになった。
かつて、隣の部族を襲撃したり、同じ国の中で殺し合いの内戦をしていた時代を経て、
今の和平があるように思うと、次の進化は【種全体の和平】しかない。
今の時代、何県出身だろうが、日本人であることに変わりはなく、
都道府県同士で殺し合いなどしないのがあまり前であるなら、
同じ【ホモサピエンス】という一つの種である世界中の人々は、
同胞であることに間違えなく、もし本当に我々が優れた種であるというのなら、
最終的な答えは、人類の和平を当たり前のこととして捉えることの出来る能力じゃないだろうか?
・・・
仕事に懸命であることに、この先も変わりはないだろうけれど、
そのもう一方で、ひとりの人間として【どう生きるか?】を考えている。
それは、10代の頃と何も変わらない・・・
とてもシリアスな子供だったのかもしれないけれど、
自分の人生を生きているのは、自分ひとりでしかないのなら、
自分が真剣にならなくて誰が真剣になるのだろう?と思う。
今年、2018年をどう生きようか?と考えたとき、
ふと思ったことが、誰かの為に生きてみようかな?という想いだった・・
この変化は、自分にとって興味深い。
愛のない人生は、なんの意味もなく、
実に味気のないものだ・・・
つくづくそう思う・・・
]]>
何においても基礎や基本がない限り、その応用はない。
何処にいってもことさらに“基本、基本”と言われる。
料理の世界においても、
基本が出来てない!とか、
まずは、基本が大切。とか、
誰もが口にする。
ごくごく当たり前のことで、
自分も若いスタッフには、うるさく言う。
基本の重要性は、この25年のキャリアの中で
随分と考えてもきたし、何度も痛感してきた。
だから、今更文書にするようなことでもないし、
あるレベル以上のシェフは、誰しも同じようなこと言っているので、
わざわざ、自分が言うようなことでもない。
僕のようにひねくれた思考の持ち主であれば、
そんな分かり切ったことより、
もっと斬新が意見があってもいいかな?とふと考えてみた。
基本??
そんなもん、どーでもいいんじゃないの?ってね。
・・
これは、さんざん基本の重要性を考えた人にのみに有効な言葉かもしれないけど、
良い結果を生み出す=基本ができている人。
という方程式が、必ずしも正しいくはないということ。
事実、我々の商売は、目の前の人を喜ばすことができてナンボの商売だ。
しかも、継続的に何十年も常に目の前のお客を喜ばせ続ける才能があるなら、
その人は、【良い結果を出している】と言えるだろう。
基本や基礎というのは、良い結果を生み出すための
ほんの1パーツにすぎない。
・・と、そんな見方も出来る。
例えば、専門的に音楽を学んだことのない人がいるとして、
学生時代に趣味で応募したコンクールで入賞し、
たまたまレコード会社の目に留まり、
メジャーデビュー・・なんて話は、またにある。
楽器も我流で上手いとも言えず、
歌も生まれつきの能力だけでやってる感じで、プロフェッショナルではない。
ただ、人の心に響く歌声で、
人間的にも魅力的。
売れ始めてから、後付けて色々なスキルを身に着けていった。
だけど、売れた要因は、スキルではない。
人を惹きつける魅力があったからだ。
・・
表現物には、様々なものがある。
音楽、絵画、写真、映画・・・などなど実に様々だ。
人を魅了する作品を創り出す人って、
皆、基本や基礎がしっかり出来ていた人なのだろうか?
実は、後付けタイプのほうが多いような気がする。
はじめは、【表現したいんだ!】という若さというか、強いエネルギーで
突き動かされるように作品を生み出してきたんだと思う。
ソレが、多少粗削りでプロからみて、
スキルが素人っぽくても、
それを凌駕する【魅力】があれば、
人は【感動】する。
もしかしたら、我々の業界は、そういう迸るようなエネルギーを潰しているのかもしれない。
修行、修行もいいけど、
基本ばかりの反復と雑用ばかりのキツイ仕事で、
その人がもっている可能性や個性、素晴らしいエネルギーの源を
がんじがらめの世界に閉じ込め、ダメにしていることも多いんじゃないだろうか?
我々の世界は、旨いもんを作れてナンボ。
そこには、基本的なメソッドがある。
その基礎をしっかり身に着ければ、
後々自分の財産になる。
100人いて、99人は、そういう一般的な方法論で
きちんと学んだ方がいいかもしれない。
ただ、それが全てではない。
今、挙げたように、
その方法一辺倒では、せっかくの【面白いヤツ】が、【つまらないヤツ】になる。
そして、どんなに素晴らしい基礎を学んだとしても、
最終的に結果を出せる人は、ほんの一握りだ。
そう・・
自由にやろうが、きっちりやろうが、
最終的に一握りの人しか結果が出ない世界なら、
自由にやってもいいんじゃないの??
これは、最終ゴールを何処にするかの問題もあるけど、
そういう考えがあっても間違えではない。
人を喜ばせる才能に、基礎も基本もないということだ。
若いスタッフの教育上、これほどの問題発言もないようにも思うが、
我々は、職人であること以上に、
人に【感動】というものを【創造】する職業であることを
よく頭に入れておいてほうがいい。
もし、自分にその才能があると思うなら、
我が道を進むべき。
そして、自分の信じる道を辛くても進み切る。
その先に何が見えるのか?
結局、
【やっぱり基本は大切だな・・】・・と、
自分で気づく日がくる・・
そんなオチ(笑
・・・
最後に余談かもしれないが、
最近、年を重ねたせいか若いエネルギーがとても輝いて見える。
その“一瞬の輝き”の尊さを我々はもっと大切にしてあげるべきだと強く思う。
何故、その輝きを認めることや賛美することよりも、
潰すような態度に出る人が多いのだろうか?
自分たちが、かつて修行時代に味わった苦しみや辛さを
同じように味合わせたいという思いもあるんじゃないだろうか?
心の奥底にある、その思いは一体何を産むというのだろう?
この業界を愛しているなら、数少ない貴重な人材をもっと大切に扱うべきだし、
もっと尊い存在だと思うべきだと思う。
その【愛】が不足してるように感じる。
ゆとり教育の弊害に対する社会の反省や、甘やかしから一体何が生まれるのか?という声。
そういう意見とこの問題を同レベルで語ることも間違っている。
無意味に甘やかす必要もない代わり、無意味に厳しくする必要もないということだ。
過去の反省点として、無意味な厳しさというのもの日本の社会にあったことを反省すべきだ。
極端な方向で議論すべきじゃない。
バランスの取れた中で愛を持って指導すべきだし、
門を叩いた時にあった若者の輝きやモチベーションをもっと尊重し、
大切に扱うべきであると自分は思う。
ある部分は、昔とは違う。
その時代にあった教育の仕方もあるだろうし、
今までの概念にはなかったような新しいトライアルもあっていい。
その中には、時代に関係なく人を育てる上で重要なキーワードがあるだろう。
【個の尊重】【精神の自由を与え愛をもって見守ること】
そうした本質を理解した上で、
若い子たちにチャンスを与え、未来を創造してもらわない限り、
この国にも、この業界にも明るい未来はないように思う。
ここからが本当の余談かもしれないけど、
自分のように出来の悪かった人間が出来ること、言えること、
してあげれること・・・を考えた時、
やはり、今までとはアプローチの違う方法で、
若い子の才能を伸ばしてあげたいと思うのです。
基本に忠実であることも大切だけど、
振り切るほど、自由に想いを表現することの大切さと楽しさを伝えたいと思うのです。
]]>
僕は、夢ばかり見てる、夢のない子供だった・・・
18歳の時、この先の進路をどうしようか?という時期に、
最初はデザイン学校の願書を片っ端から集めていた。
何処のデザイン学校にしようかと迷っている頃に、
ふと・・“調理師免許をとったほうが現実的じゃないだろうか?”と思った。
全く夢のある発想ではなく、どうやって暮らしていくかを考えていた。
・・
僕は、子供の頃から夢という言葉があまり好きじゃない・・。
何か、その背景にある大人たちの思惑が隠されているような気がしていたからだ。
だから、若い頃から甘い夢など見たことがない。
あるのは、厳しい現実のみだと思っていたし、
【今】という瞬間を生きるだけで、
精一杯だった・・というのが正直なところだ・・・。
・・
我々は今の若者たちに何を伝えられるのだろうか?
そして、どんな未来を提案すべきなのか?
日々、伝えていること。
日々、与えていること。
それは、それぞれの将来の目標に向けて役立つだろう生きる術だ。
では、その目標とは何か?
【その目標を達成したとき、君は本当に幸福なのかい?】・・と問いただす。
それは、本人にではなく、伝えている自分自身に対してだ。
・・
人には、一人ひとり異なった目標や夢や幸福感がある。
しかし、人によっては、
自分にとって本当の幸せとは何か?が分からないまま社会に出る。
そして、そこに目を付ける悪い大人たちもいる。
それは、昔も今も同じだ。
個の人生観が確立する前の若者に対して、
夢を煽る・・
【若者たちよ夢を持て!】と・・。
その大人たちが勝手に描いた夢に乗って、
必死で頑張って、その先に手にしたものは、
大人たちに貢ぐための金だった・・
そして、そんなカラクリにも気づかぬまま、
社会に埋もれていく・・。
よくある話だが、そうはなってほしくないし、
自分自身が若い頃、そうはなりたくなかった・・
夢を持つな・・とは、言わない。
しかし、甘い夢は捨てるべきだ。
それが本当に【自分が求める幸福な姿】なのかをよく考えたほうがいい。
・・
どの職業においても一流と呼ばれる人がいる。
そこを目指したり、憧れることは悪いことではないし、
自分を高める上でもよいことかもしれない。
だけど、【憧れること】と【目標】にするのでは意味が違う。
自分の身の丈を遥かに超える【目標】を設定して、
挫折してしまう人が殆どである現状を冷静に考えたほうがいい・・
人には、生まれ持った宿命というか、その人に合った器が用意されているように思う。
その器は、大きさも違えば、色、形が全て違う。
だから、1000人いれば、1000人の人生があり、人生観があるはず。
なのに、大雑把に3択か4択程度のオプションしか与えられなかったとしたら、
そこからはみ出してしまった人は、可哀想だ・・。
それは、今の教育制度の延長にあるのかもしれない。
社会に出てもそれは同じ。
そうなってくると、知らぬ間に人の夢に乗っかったり、
見てなかったハズの夢を見させられたり、
自分という固有の存在が取り残された形で、
どんどんと時間だけが過ぎていく。
本当にコレでいいのだろうか?
薄々そう感じつつも、もう止めることも変える勇気もない。
自分の身の丈に合わないものを追いかけて、
そして、躓き、這い上がれず、挫折する。
それが生存競争に負けたもの・・とみなされ社会は切り捨てる。
そもそも、その原因を作ったのは誰か?
【夢】を煽った大人たちの罪か?
それとも、それに乗った若者たちの未熟さか?
それは、両方かもしれない・・・。
だから、その罪を誰も見つめようとしない。
そして、煽った大人たちは心の中でこう呟く。
“才能なく、努力も足りず、夢を追いかけたが故の敗退、それは自己責任”と。
自己責任という、とても都合の良い言葉があって、
結果がどうあろうと、それはソレを選択した【あなたの責任です】と社会は言う。
でも、経験を積んだ大人たちは、若者を見て、
ある程度の判断は初期段階で分かっているはず。
しかし、そこでもこう言う・・
“誰しもに未知の可能性がある!夢を諦めず努力しよう!”と・・・。
そんな思ってもないことを口にして
若者たちを戦場に駆り出した罪は重い・・。
・・
僕がお勧めしない理由はこの辺にある。
高い意識を持ち一流を目指すことと、
身の丈を知らずに上昇志向に乗って、
勘違いしたままに他人が作り上げた張りぼての夢に向かうこととは、
本質的に違う。
自分だけが本来持ち合わせた【身の丈】に合った【目標】を設定すべきだと思う。
これは、現実を見て小さく纏まれ・・と言っているわけではない。
ごく自然体で、自分を見つめ、自分を知り、自分に合った人生のプランニングをするべきだと思う。
今の時代は、あまりにも情報が多いし、
様々なメディアからの情報も簡単に入る。
スマフォひとつで、世界で活躍する人物の姿を目の当たりにすることができ、
それはあたかも【隣の友人】のような親近感すら覚え、錯覚する。
“自分もこうなりたい!こう成れるんじゃないか?”と・・・。
そう思う簡単さとは裏腹に、そうなる為の努力はしない。
まさに、ソレが夢のような幻想だ。
だけど、僕は今の時代は、情報が多いからこそ、
自分で自分に合った人生を自由にプランニングできるように思う。
昔は、もっと選択脚が少なかったし、
何かに挑戦するにも今の何倍も苦労が必要だった。
今の方が遥かに様々な間口は拓かれていることを考えると、
これは、昔と比べ有利でもある。
そうした、良い部分を活用し、周りに惑わされることなく、
情報を選択していければ、自分なりの道が拓かれるように思う。
だからこそ、まずは自分自身をよく知ることから始めて欲しい。
【そこが全ての出発点であること】を再認識してほしい。
それを置き去りにしたら、最終的なゴールはない。
・・
何を目指すか?という目標設定の前に
スタートラインの設定をすることから始めるべきだ。
皆、ここが抜けている。
スタートラインは、自分を知ること。
自分が掲げている目標は、自分にとって幸福であるか?を吟味すること。
それを達成し、自らの手に収めた時の自分をリアルに想像すること。
そして、スタートから目標達成に至る経緯に無理がないか?
それが【自分】にとって可能であるかを検証すべきだ。
【人が夢を見る・・それが【儚さ】である】
僕が、この言葉を目にしたのが丁度、中学生の時だった。
それからも僕は夢を見続けて、追いかけては、
何度も挫折し、
そこから這い上がり、やっと夢を捕まえて、
この手の中に収め、
見つめてみた・・
残念なことに、ソレは手から零れ落ち、
瞬く間に消えた。
【夢ってなんだろう?】
それは、カタチの無い自らが創り出した幻想だった…
だから僕は、また追いかけるのです。
]]>
僕は、ただ自由になりたかった。
【自由】という言葉に惹かれ続けた・・・
そして、【自由とは一体何か】ということをずっと考えてもいた。
当時20歳ぐらいだったと思う。
抑圧された社会。
封建的な会社。
20歳の若者にとって、
反発心を抱く上で、これ以上ない環境だった。
もしかしたら、
当時の自分にとって、その【不自由さ】は、
幸せだったのかもしれない・・・
もし、仮に自由な環境であれば、
僕の中で【自由を手にしたい】という願望は、生まれなかっただろう・・・
僕は、会社を辞め、
社会から飛び出し、
そして、日本からも抜け出してしまった。
独りフランスに旅立った僕の中には、
解放感と同時に無気力で無力な自分がいた。
全ての抑圧から解放されたはずの僕には、何もなかった・・・
【自由って一体なんだろう・・・】
時が過ぎ、
僕は、シェフになった。
もう、上からの指示で料理を作ることはない。
僕は、僕の料理を作ればいい。
僕は、自由なのだから・・・。
そこでも、また抑圧が待っていた。
業界には、フランス料理とはこういうものである・・という
暗黙のルールや規範があった。
今にして思えば、それは幸せなことだったのかもしれない。
その枠から一歩はみ出すだけで、
異端と呼ばれる。
それは、批判でるあると同時に、
周りの料理人にとって脅威でもある。
僕の表現は、良くも悪くも噂になった。
僕の住む街は、閉鎖的だ。
そして、ほんの小さなコミュニティーで形成されている。
ちょっと変わったヤツが出てくれば、
アッという間に噂にしてくれる。
僕にとってソレは好都合だった。
批判されればされるほど燃えてくるし、
抑圧が強ければ強いほど、
そこからはみ出そうとする。
だけど、今の僕には戦う相手がいない・・・
社会にも受け入れられ、
会社は僕のもの。
この業界でも、そこそこ名前が売れた。
もう、昔のように反発する相手がいなくなった。
業界では今、何をしたところで世界という枠組みの中では、
平凡の域を出ない・・・
この街で個性的であろうとも、
世界のガストロノミーの中では、
取るに足らないことだ。
自由であることやエキセントリックなことは、
もはやスタンダードであるといってもいいぐらいに、
世界の食のシーンは、自由に溢れている。
そうなってくると逆に、
際立ったシンプルさや素朴なものの方が個性的にも見えたりする。
僕の求めていた【表現の自由】って、一体なんだったのだろうか?
【枠】というのは、大切なものだ。
そして【自由】というのは、
逆に表現をつまらないものにしてしまいがちだ・・・
【自由】は時に
解釈の過程で、
【デタラメ】にもするし、
【なんでもあり】にしてしまう・・・。
デタラメやなんでもあり・・は、ルールの枠に収まっていない。
格闘技の世界で【この試合のルールはなんでもありです・・】とかいったりするが、
なんでもあり・・は、ルールじゃない・・。
ルール違反すらルールです・・という解釈がめちゃくちゃだ。
そういう類のものには、品がない。
そして【面白味】がない・・・。
ルールや枠があるからこそ、
【際立つ】表現がある。
僕の持ち味を考えても、
今の【なんでもあり】の世界は、
非常に【生かされない】
自由があまりに飛躍していくと、
【解放】は解放ではなくなるし、
表現の爆発力は半減する一方だ。
【解き放たれたい・・・】
表現者にとって、
そのエネルギーが表現に爆発力を生み出し、
光と輝きを与える。
僕が待ち望んだ【自由の世界】は、
手にしてみると、
【何もない世界】だった。
まるで、20歳のころに感じた
あの空虚な気持ちと重なるように・・・
]]>
【真実は、美しい。 美しさもまた、真実である】
この言葉は、ある細胞学者の英語文を私が自分の解釈で和訳したものである。
ネットで検索しても、これと同じ文は出てこない。
今後、この言葉を検索するとこのブログに辿り着くはずだ。
・・
この言葉は、実に深い・・・。
たったこの一文で、全てを言い表しているように思える。
美しさとは何か?
という漠然とした問いに対して、
その更に上をいく抽象的な答え。
しかしながら、
この言葉は、
その全ての意味合いを内包しながらにして、
シンプル且つ、的確に
その答えをいい表している。
この文こそが、まさに美しい・・・
・・・
引くことも、
足すことも出来ない、
過不足のなく流れる言葉。
美しさとは、
そういうものだ。
そして、それが真実。
真実には、補足など必要がない。
嘘には常に言い訳がついて回る。
・・・
僕の汚れた精神は、
いつも、真実を突き付けられ、
怯え、跪く・・・
僕にとって、表現とは修行であり、
精神の浄化であり、
自己の探求である。
いつも、自分を探し、
美しさを求め、
真実を追いかける・・・
【真実は、美しい。 美しさもまた、真実である】
本当に美しいものに出会いたい・・・
そう心から願う【精神】
その【祈り】の中に
自分の本当の【姿】が見えたとき、
僕は終わってもいいのかな・・・
真実の美しさを知らずして、
死にゆくことは、実に悲しいことだ・・・
]]>
あなたは、僕を過大評価しすぎだ。
僕は、あなたが思うほど、才能はない。
そして、君は僕を過小評価しすぎのようだ。
僕は、君に理解されるほど、単純ではない。
僕は、時に絶賛され、そして酷評される。
世間はバカだと思っていたが、
思ったほどバカでもない。
全くもって正しいじゃないか・・・
どの評価もそれはそれで正しい。
ただ、その中で誰一人として、
僕を知る者などいないという点において、
非常に残念に思う。
だから、よい評価も悪い評価も自分にとっては、全く同列だ。
真実を知る者にとって、
小さな嘘も大きな嘘も、
嘘であることに変わりはないのだから・・・。
]]>以前に書いた【ガストロノミーの未来】から一年半ほど経過して、
今思うこと・・・。
フードロス?
環境破壊?
人口爆発??
どうだろう・・・
・・・
改めて考えてみている。
我々は所詮、100年程度の尺度でしか、ものを見ていない。
そして、殆どの生物は、その瞬間に生きているに過ぎない。
人間にしても、過去を振り返ったり、歴史を紐解いてみたり、
また、未来を想像したり、未来に生きる人々の為に何か残そうと考えてみたり・・
そんな風に思考の中で時空を超えたりすることがあったとしても、
今日、明日を生きることで精一杯なのが現実である。
自分の人生を全うすること。
生物として、それ以上のミッションはあるのだろうか??
・・・
そう考え着いてしまうと、
以前書いた自分の記事に疑問を感じる。
【今を精一杯生きる】
ここに答えがあるじゃないか・・・
皆が誠実に今を精一杯に生きさえすれば、
もしかしたら、様々な問題も解消するかもしれない。
【生き方】だけが問題ではあるが・・・
・・・
この言葉も自分的には幾分、違和感がある・・・。
果たして【精一杯】という表現が正しいのか?
生きるという行為に、
精一杯という言葉が必要なのか?
・・・
話を戻そう・・・
先に挙げた未来の地球が抱える問題。
今の自分的には、それは【未来の人が考えるべき問題】である。
それが結論だ。
何故今そう思うかというと、
そうしたサイクルは、今に始まったことではないと痛感したからだ。
その時代、その時代で人間やその他生物は、
その瞬間を生きてきたにすぎない。
変化する環境に応じて、自己を守り子孫を残してきた、
利己的遺伝子なわけで、
まずは、自分である。
それは、本能だ。
今の地球環境を作ってしまったのは【誰?】・・・と言っても、
誰でもなく、また全てである・・と言える。
要するに、誰でもないが、全ての人にその責任がある。
しかし、それは【人間】という【種】が持ち合わせた【本能】だ。
それは、避けがたい・・・。
善も悪もなく、
ただ、ひたすらに人は、今の環境を作ってしまったに過ぎない。
その瞬間に生きた我々だけが、罪を背負っているわけではない。
今に繋がる歴史が脈々と過去から現在に流れているのである。
【このままじゃ、200年後の地球が危ない!】
と警鐘を鳴らしていた人たちが200年前にいたかもしれないが、
大きなウネリの中では、もうどうることもできない。
それが【自然の摂理】だと思う。
この46億年の地球の歴史の中で、
何万回と様々な環境変化があり、
生物の9割が死滅するような大惨事も何度もあった。
・・・
今に生きる我々が未来の環境や未来に生きる人々を憂う気持ちは、非常に尊いが、
それはそれである。
感じ、思うことは大切なことであるが、
それは生きる上での本質ではない。
やはり我々のミッションは【今、この瞬間を生きること】でしかないと思う。
・・・
自分は、未来に生きる人々の為に何ができるだろうか?と言って、
今の自分の人生を犠牲にし、何かの活動をしている人がいるなら、
それは本末転倒である。
その行為は、単純に自分に酔いしれているだけであり、
自己満足に過ぎない。
それは、あまりに無知だ・・・。
自然というものを知らなすぎる。
自然の摂理というものは、
そんなに簡単に変えることができるはずがないし、
そして、それほどヤワじゃない。
もし、自然という個体があったとして、
言葉がしゃべれるならこう言うだろう。
【オマエなんかに心配されたくねーよっ。何を勘違いしてるの?
あなたは、一体ナニ様のつもり?
そんな暇あったら、自分のことを大切して生きろよ!】
そういうに決まってます。
オゾン層が破壊されようが、
人間が100億人を超えようが、
自然全体でみると、
よくある小さな変化のひとつです。
だから、楽観視していいじゃん・・っていう話ではないです。
どの時代に生きる人々も必死に生きているということ。
その時代、その時代で抱える問題があるということ。
我々は、過去でも未来でもなく、
【今を生きている】ということ。
過去から引き継がれた【財産】もあれば、負の遺産もある・・・
そういうバランスの中で、
その時代に生きる【生命体】は、己の一生を全うする。
単純にそれだけのことに今は思えます。
だから、僕は、今・・この瞬間の中を生きているのです。
]]>
仮名【体験型食空間】
キャプション?
20xx年、○月○日。
彼は、いつものように仕事に出かけた。
仕事は、いつも単調だ。
この厨房にも、この客席にも、
この土地にも、
そして、自分が創り出すこの料理にも飽き飽きした。
どうしてこの先に進めないのだろうか?
最高の感動体験をしてほしい。
【未だかつてない食の体験を僕は想像し、創造したいんだ。】
突然、彼はスタッフにこう告げた。
【もう全てのことに飽き飽きしたので、今日をもって全てをやめる】
彼は、本気だった。
すぐに車を走らせた。
彼は、海を探し、山を探し、畑を探し、森を探した・・・。
あての無い旅ではない。
彼の中には、明確なイメージがあった。
最高の美味しさを普通の環境で提供するには限界がある。
誰もが見落としていることがある。
誰もが、目の前の料理が最高であれば、
最高に感動してくれる・・と思いこんで疑いもしない。
彼は、ずっと前からそれが疑問だった。
そして、そこを疑っていた・・・
何故、食べる側の状態を知ろうとしないんだ?
食材も最高、設備も最高、スタッフも一流を集め、
最高の仕事が出来るようにこれ以上ない労働環境も用意した。
でも、料理は出して終わりではない。
最終ミッションは、相手を感動させることだ。
でも、相手が今どのような状態であるかについて、
我々は知ろうとしていなかった・・・
ずっと疑問だった点は、そこだ!
僕は、まずそこから考え直した。
“最高のコンディションを相手に与えることから始めよう”
勿論、自分の体調ではない見ず知らずのお客様のコンディションを
コントロールすることは、もはや料理人の範疇ではない。
しかし、
範疇を越えていかない限り、新しい可能性は生まれない。
自分が料理人であり、その本分がなんであるかを決めるのは、自分でしかない。
まずは、自分の中にある【料理人】というフォーマットを壊していくことからはじめよう。
彼は、究極のガストロノミーを探求すべく、
新しいスタイルの宿泊型レストランを創ることにした。
ホテルでも、レストランでも、オーベルジュでもない・・・
既存の呼び方やカテゴリーは、もはやどうでもいい。
皿の上・・という小さな枠からはみ出し、
箱全体・・いや、環境も含め、
全てを料理の一部と捉える感覚が必要だ!
それは、過ごす時間が全てコースの一部であることをテーマにした、
“宿泊体験型美食空間”である。
いくつか新たらしい試みがあるが、
目玉となっているのが、
【お客様のコンディションを創造する】という試みだ。
我々がターゲットにしている顧客層は、
普通の人ではない。
プロ、ジャーナリスト、富裕層、
そうした世界中の一流ホテルやレストランを知り尽くしている人たちだ。
そういうお客様は、決まって暴飲暴食・・・
連日、外食が続いている人も珍しくない。
そういう人は、
基本忙しくて、時間に制限もあったり、
旅で疲れていたり、
当然、食べることにも疲れていたりする・・・。
提供する側としては、
それだけ、状態が悪いところからスタートしないといけない。
それを前提に、ディナー前日の体調と精神状態から
こちらでコントロールする試みだ。
宿に着いたその瞬間から、
実は、この店のコースは始まっている・・・
お客様は、そのことには全く気付いていない。
キャプション?
お客様が到着。
この施設には、チェックインはない。
コンシェルジュが笑顔で迎え、
まず、真っ直ぐにある場所へと通される。
この場所の一番の決め手となった、
【聖なる湧水】の場所だ。
お客様の今の感情は?
早く、ゆっくりしたい。
早く、座りたい。
早く、渇いたのどを潤したい・・
その感情をぐっと我慢していただき、
彼女は、手短にテンポよく、
こんな話をする。
この土地の歴史背景。
この水の神話。
この水の効能。
この水が全ての調理に使用されている話。
全ては、ここから始まる。
“人の感情をデザインする”ことをテーマにしている我々の
もっとも重要なパーツが、この水のくだりだ。
この儀式によって、
全てのお客様は、リセットされ、そして引き込まれる。
説明も早々に、部屋に案内されると、
さきほどの水が“完璧な温度”でサーヴィスされる。
窓からは、海。
逆サイドの窓からは、畑と牧場、そして山。
壮大な自然を背景に、
完璧に調和された室内のデザイン。
そして、寛ぐことにもひと段落した頃合いで、
ふとテーブルに置いてある“カード”が目に留まる。
開いてみると【ここでの過ごし方】が明記されている。
我々のミッションとお客様の目的がひとつであることを
確認し、その為に準備して頂きたいことや注意してほしいことが
簡潔に書かれている。
ここに訪れる時点でお客様も十分にそれを理解した上で、
予約されており、その具体的な内容がそこには示されている。
全ては、明日のディナーに向けての準備であることを・・・
キャプション?
我々チームには、明確な役割分担がある。
・総合ディレクター
・シェフ・クリエイティヴ
・シェフ
・部門シェフ
・キュイジニエ
・アート・ディレクター
・音響デザイナー
・グラフィックデザイナー
・空間ディレクター
・照明デザイナー
・サーヴィス・ディレクター
・サーヴィス
・コンシェルジュ
・フード・アシスト
・メンタル・デザイナー
その他、宿泊と温泉、スパには、
それぞれの担当者がいる。
宿泊は、10部屋オールスイート。
1室4名まで可能で、
最大で40名。最小で20名。1名は受けない。
・・・
具体的なルール説明が終わり、
夕食までは、特に何もない・・・
時間にして3,4時間程度は自由である。
散歩する者、
温泉へ行く者、
スパに行く者、
部屋で寛ぐ者・・・
宿泊当日の夕食は、
質素である。
内容は、実に計算されたものが提供される。
ここでも、お客様には、意図は伝えない。
しかし、この夕食は、
明日のディナーと繋がっている。
全ては、新しい感動の為。
そして、
翌日を迎える。
この時点で、バラバラだったお客様の状態が、
大まかに同じラインで揃う。
ここにいるお客様全員に、
同じ施術を行い、同じ空間で、同じ夕食を食べ、
同じ時間の流れを感じてもらった。
その成果が出始めるのは、
丁度、この【翌日の朝】というラインである。
ここにはもう、疲れている人もいないし、
食べ過ぎの人も飲み過ぎの人もいない。
イライラしている人も、懐疑的な人もいない。
リラックス、安堵感、解放感、期待感・・・
空腹すぎる訳でもなく、勿論満腹なワケもない。
色々な仕掛けによって、それ以外にも、
味覚、嗅覚、視覚など【感じる】能力が高まるように、
前日から仕込みされている。
前日から仕込まれているのは、それだけじゃない。
お客さまには“渇望”を与えている。
これは、我々にとってとても重要な“キーワード”である。
意図的に“渇望”を創りだし、提供しているのだ。
キャプション?
朝食も選択脚はない・・
朝、お客様には同じ時間、同じ場所、
同じメニューを食べて頂くシステムになっている。
朝食を終えて、ランチタイムまでは自由だが、
昼食も基本、朝食と同じライン。
皆が揃って同じもの。
ここまで来ると、いよいよ少し苦痛になる者も出てくる。
ここが限界。
普段、我儘な人たちが多いここの顧客にとって、
楽しくルールを受け入れながら、渇望を与えられる【限界】が丁度このあたり。
しかし、丁度このラインが来店して24時間経過のラインでもある。
朝の時点で大体揃っていた【状態】もここまで来ると
ほぼ完全に揃い始める。
ここからが最後の仕上げだ。
昼を終えた、14時から17時までの3時間は、
行動制限と食事制限がある。
間食はNG。
飲み物は水のみで500ccまで。
行動は、宿泊施設の周りを囲む、
海、山、畑、牧場・・
この4か所を案内。
今夜のディナーは、すべてこの4か所から生まれた食材だ。
お客さまには、全ての食材を実際に見て感じてもらう。
この4か所には、【フード・アシスト】がそれぞれ常駐してて、
海には海のプロ。
山には山のプロがおり、
食材の背景、性質、どのような料理になるのか・・
そして、いつ採れたものをどの温度でどのように提供すると
最大限ポテンシャルを生かせるのかを説明する。
しかし、どのエリアにいっても、
試食はさせない。
渇望と期待感、そして空腹だけがどんどん加速する。
キャプション?
18時ジャスト
とうとうディナーが開始される時間が来た。
一同に、メインのレストラン空間に集まる。
お膳立ては全て完璧に出来上がっている。
ここからが彼らの出番だ。
ここでは、料理ごとに【照明】も【音楽】も変化する。
レストランスタッフ以外にも、
そうした演出を担うプロがこの瞬間の為に準備をしている。
いよいよディナーがスタート・・・
第二部へ続く・・・。
この物語はフィクションです。
ただの私の妄想です・・(笑
]]>