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見つめる先に在るもの






今、長年封印していた絵画と陶芸をはじめた。

封印といっても、

やっていたわけではない。

ずっとやりたいことであったが、

もし、取り組んでしまうと仕事が手につかなることが分かっていたので、

そういう意味で自分の中では封印していた。

・・

しかし、ここにきて二つ同時に始めるとは想像していなかった。

やるにしても、どちらかひとつから始めるものだと思っていたのだ・・

実際にやってみると、

予想通りの部分と

予想を越える部分とが二つ見えてくる。


予想を越える部分にこそ、

人生の面白さが隠されているように思う。


何事も同じだ。


人は経験を積むにつれ、

色々なことが具体的に想像できるようになっていくが、

しかしながら、

どんなに経験を積んでもなお、

想像しきれないことが必ずある。


それこそが次のステージに上がる為の経験であったりする。


それは、絶対にやったことのある人にしか見えてこない世界だ。

そして、その先には、

やり続けた人にしか見えてこない世界も待っている。


僕は、料理同様に、

その【やり続けた人にしか見えてこない景色】を見たいと思う。


・・・

今、料理という仕事をしながら、

絵画と陶芸を真剣にやっている。

これは、想像通り・・とてつもないエネルギーを使う。

そして、この3つは僕にとってハッキリと重なる部分と、

全く異なる部分が存在する。

その世界にしか無い特有の要素がきちんと存在することを知る。

そして、同時にどの世界でも同じことも言える。

モノを作る。

モノを表現する。

モノを創造する。

これらは、僕の中では出力された結果が異なるだけで、

その本質にあるものは同じだ。


僕が24年やってきた料理という世界のベースが自分にあることは、

ひとつの土台になる。

それは、物事を習得するプロセスにおいて

大きなヒントだ。


自分が何もできない状態から独学で

料理のメソッドを習得してきたプロセスは、

間違えなく自分の中に備わっているからだ。


それは、自分自身で日々考え、失敗し、その自分と向き合い、

そして、その作業を継続してきたからだ。







・・・


継続の中でしか、絶対に見えない世界がある。

それは、料理の中で学んだ。

そして、それは現在進行形であり、

今も尚、学びの途中である。




絵画や陶芸は、僕にとって掛け替えのない表現ツールになりつつある。

観賞する側に甘んじてきたこの数十年であったが、

ここにきて、表現する側のスタートラインにやっと立つことが出来た。

それは、誰でもなく

この自分にとって、

幸福であることに間違えない。


それほどまでに、自分が長年求めていた世界だからだ。


その世界というのは、

別に、絵画や陶芸のプロの世界という意味とは違う。

継続の先に、後付けでそういう現象があり得たとしても、

それは、自分にとって二次要素であり、またどうでもいいことである。


求めていた世界とは、

その制作の中にある精神世界だ。


これは、なかなか料理の中では味わい切れなかった感覚である。


静寂の中、一人きり

無の世界と向き合い、

自分の中にしかない世界を見つめる作業。


この状態は、何とも言えない感覚がある。


恍惚感? 喜び? 幸福?


なんだろうか??


今の僕には、既存の言葉は見つけることができないが、

これほどまでに、この新しい世界に浸っている状態が

自分にとってしっくりとくる感覚を他で見つけられない。




それに近い状態を料理の中で何度も作り上げようとしてきた24年であったが、

それは、現実的になかなか難しい。

そして、それが何故難しいことであるのかを

ここで説明することが非常に面倒なほど、

自分の中でハッキリと多くの理由が存在している。




・・・


僕の今回の取り組みの中で、

10年先のヴィジョンが明確になってきた。

僕が何を手にしたいのか。

どこに進もうとしているのか。


僕は、自分の心の中に今、それをハッキリと描き始めている。


しかし、この二つの世界というのは、非常に難解で、

料理同様に、生涯続けられたとしても、

その真髄を知ることができないままかもしれない。


今、3つのジャンルの中で、自分の思考回路が、

様々な表現様式に迷路のように絡み合っている状態で、

言葉として出力するには、相当に早い段階ではあるが、

こうした状態の今を記録しておくことも大切だと自分は思う。




それは、まさに今を切りとったスナップ写真そのものである。


文書にしても、作品にしても、

自分の場合は、全て未完成なまま終わる。


成長し続けている状態において、

作品は、その時その瞬間を切りとったスナップであり、過程にすぎない。

完成した段階は、単純に切り上げただけであり、

それで終わりということではない。


ひとつの作品を作る過程で、

今まで知り得なかった“気づき”が間違えなく自分の中にあるわけで、

その時点で既に今作っているその作品に着手し始めた自分を超えている。

それは、もう今作っていながらにして、既に過去のモノとなっている。




キャリアを積めば積むほどに、その気づきのスピード感は落ちてくるとは思うが、

今、これだけの多様な表現に向き合い始めると、

初期段階なのも手伝ってか、物凄いスピードで日々景色が変わって見えるのが分かる。


そして、これをマルチタスクのように

多様なジャンルの思考を行ったり来たりしながらも、

10年、20年、30年と積み上げた後、

僕は、きっとこう思うはずだ・・・。




全ての道はひとつであると。




そして、今やっている基礎的な技術や知識が、

なんら必要となくなり、

表現における【芯】の部分だけが残るようなイメージを持っている。




しかし、その一本の【芯】を表現する為には、

多くの【無駄】が必要であることも知っている。

結果、人生において、無駄なことはひとつもない。


また、表現という世界において、

最後に残る【芯】の部分とは、丸裸にされた自分そのものであり、

その自分の中に【芯】があるかどうかで決まるような気がする。


それは、ある種【哲学】のようなもので、

哲学のない人は、色々な知識や技術を身に付けたとしても、

最後には、何も残らない。




よいものを作ろうとするなら、

やはり、自分の中にあるものを見つめ続け、

悩み続けるほか答えは、ないように思う。




今、自分はその真っ只中に生きているが、

しみじみと幸福を感じている・・・