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フォンとジュ





ここ数年、フォンやジュは、自分の料理にあまり重要じゃないので、

オーソドックスなものを用意はしていたが、

それほど独創的な作り方はしていなかった。


あまり重要じゃない・・といっても、

料理に乗るもので、重要じゃないパーツなどひとつもない。


あくまで、担う役割として主な食材と比べると、

重要じゃない・・という意味。


クラシックなフォンやジュは、

現代の料理にどうしても必要なものじゃないが、

その作り方の背景にあるものは、

非常に重要だ。


素材の選別、それぞれの量、野菜を切る大きさ、

筋やガラ、ミルポワの焼き具合、

ムイエするタイミングや何をどれぐらい入れるか。

それぞれの工程で発生した“香り”をどう液体に閉じ込めるか。

どの程度まで煮出し、どのタイミングでパッセし、

どこまで煮詰めていくのか。

ひとつのフォンやジュをとるだけで、料理人として様々なの感性が問われる。


私がイメージするソレは、

水という無味無臭の液体に、

それぞれの要素を移しこむ作業と捉えている。


これは、非常にデリケートな作業だ。


・・


毎朝スタッフが僕の立つまな板の前に水を用意してくれる。


サラダに使うハーブが何かの拍子で、コップの水に中に入った。


試しに5分ほどそのまま放置して

その後、飲んでみた。


すると、水に微かなハーブの香りが付く・・


たった一枚のセルフイユの葉っぱだけでも、

その水の味は変化する・・・


水という液体は、それだけデリケートな物質だ。


その水に焼いたガラや野菜、ハーブ、スパイスなどを入れて、

数時間も加熱するのだから、その影響はすざましい・・と思う。


ほんの少し焼きすぎた骨や野菜が入るだけで、

雑味や苦みが液体に移る。


・・


料理に対する意識が高ければ高いほど、

こうした基礎は厳格に行われるものだ。


また、今こうしたものを料理に使わないとしても、

フォンやジュをとる技術の中に、

料理を作る上で大切な要素がギッチリと詰まっている。


・・

ここまでが前置きだが、

フォンやジュの基本的な考えは、

フランスの風土に根付いて考えられたものだ。


要するに、使う野菜も肉も

筋やガラも

全て、フランスの食材であり、

最も重要な【水】も

フランスの硬水を基準に考えられている。


それが、フランス料理のベースとなっている。


そう考えると、日本の風土に合ったフォンやジュの取り方はどうなんだろう?


勿論、今までのやり方でそのまま日本の食材に置き換えて作っても、

きちんと丁寧に作れば、美味しいフォンがとれる。


しかし、それは【ソコソコ】美味しい・・程度だと思う。


何と比べるかが問題だ。


自分には分からないが、長年フランスの厨房で仕事をしてきた料理人が、

日本で同じルセットで作っても“同じ味にならない”と嘆くに違いない。

それは当たり前の話で、素材も水も違うのに同じ味になるはずもない・・。


逆に、昆布出汁をヨーロッパで作っても、

当然、日本と同じものはとれない。


ごくごく当たり前の話だ。


しかし、これだけ当たり前の話であるにも関わらず、

そこを深く掘り下げてフォンやジュを語っている人は少数だ。


僕が今フォンやジュをとるなら、

今までやってきたことは一度全て忘れたい。


我々の世代は、もう次の段階にきている。


ここまで先人が苦労して築き上げてくれた基礎を

より高度に発展させるべきだ。

高度とは、完成度という意味合いと、

それぞれの土壌に根差した新しいゴールを設定すべきという二つの意味でだ。


これらは主役じゃない。

美味し過ぎるフォンやジュが、

その土地の素材に添えてバランスが取れるとは限らないということだ。


例えば、


とても身質の繊細な白身の刺身に、

濃いダマリ醤油を付けるヤツはバカだ・・

これは、極端な話だが、

そもそも最終的にどんな料理として出したいか?

どんな美味しさを表現したいか?

もし、素材のシンプルな味わいを表現したいなら、

ソースなんて必要ないし、

その土地の特産物をメインにして考えるなら、

その素材の味わいを邪魔しないような素朴なジュを考えればいい。

少しの旨みをプラスしたいなら、そのようなジュを作り添えればいい。

この一皿に水分が欲しい・・潤滑油として考えるなら、サラサラのものを添えればいいし、

濃いエッセンスをほんの少し添えたいなら、

しっかり凝縮させたものを添えればいい。

最終的に何がしたいのかで、

作り方は変わるし、準備の段階から変わってくる。


さっきの醤油の話は、濃いものを繊細な味のものに添えても意味がないという話だったが、

別に濃さだけのことを言っているワケじゃなく、美味し過ぎるものを

質素なしみじみとした味わいの素材にぶつけることが意味がない・・ということも言っている。


フランスから伝わったクラシックな方法で

今の料理人が必ずしもとる意味がないということだ。

覚えるべき基礎は、基礎として理解し、

自分の中に叩き込む必要があるが、

そこで終わってしまうのではなく、

自分の中に落とし込み、自分の持つアイテムとして、

より高度に進化させることが現代の料理人の使命だ。




また、別の話にもなるが、

必要だから作る・・・という理由とは別に、

素材を無駄にしてはいけない・・という背景も同時も持っているのが、

フォンやジュだ。


どうしてもソースが必要であるから作るのとは違う意味合いだ。


素材の持つ要素を余すところなく使い切り、

一皿に乗せ、全てを頂くことが素材に対する感謝と愛情だという教えだ。




我々は限りのある資源の中でそうして生きてきた。


それは日本もヨーロッパもアフリカも北米も南米も・・・世界中同じだ。

そこに区別はない。


限りのある資源を大切に無駄にしないように生きてきた人間の営みであり、

それが食文化というものだ。


・・・




現代の料理にフォンやジュは必要がない。

そんな旨みの強い、重たい味のエッセンスはもはや時代遅れだ。

素材そのものの味をもっとクリアにフォーカスした料理こそが

現代のテイストだ。

そんなことに時間や手間をかけるぐらいなら、

もっと別のことに時間を使うべきだ。

【美味しさ】を追求するのなら、素材の不要な要素は、ごみ箱行になっても仕方ない。

際立って上質で洗練された美味しさだけを追求すべきだ。




例えば、こんな事を言う人がいるとして、

それはそれで正しい。

それは、その人の生き方であり、料理観だ。




ただ、そこだけではない意味合いも同時に発信する必要があるし、

特に若い子には、そこまでを伝えて尚且つ、今はウチの店では必要としないアイテムである・・と

教えてあげる必要もある。




フォンやジュの持つ意味合いは、

料理を構成する味だけではないということを・・・。
 
伝えなくていいこと
昔からよく思うことがある。


言葉では説明のつかない領域についてである。


若い頃は、自分の理解が浅いのもあり、

また、言葉を駆使するのが下手なこともあり、

【コトバでは説明できないから・・】と言い逃れをしてきた。


しかし、時が経って、

それを少しずつ他人にも言葉で説明できるようにもなった。

今は、出来るだけ誰でも理解できるように、

理論的に話をするように心がけている。


説明できないのは、自分の問題。

自分が深く理解し、相手に愛情を持てば、

言葉を駆使して分かり易く説明できるはずだ。




・・・とここまでが一般論。


勿論、ある側面では、自分もそう思い実践している。




しかし、その領域を超えるような事柄もある。


要するに、言葉・・というツールだけでは、

伝えきれないことがあるということ。




人はいつのまにか、言葉というツールが意思伝達において、

万能であるかのごとく、勘違いしているようにも思う。


それは、まるでその言葉がそれそのものであるかのように・・・。


少し分かりにくい表現だが、

情報の入り方として、言葉がある程度揃うと、

受ける側は、それ以上の情報を入れようとしない働きがあるように思う。


音楽や映画、絵画や料理といった【表現物】があるとして、

その作品について、作者が中途半端にその作品について、

あれこれ説明を添えれば、その作品は見る人には委ねられない。

作った本人が言うのだから、それ以上でもそれ以下でもない・・と思うわけだ。




しかし、本来はそうじゃない。


作品にもよるが、通常は多くの背景があり、

作品は表面に出ている一部分にしか過ぎない。


見る側は、その一部分を見て、聞いて、感じて、

そしてあらゆる感性を働かせて、

その作品の奥行を感じ取る。


奥行を感じ取るのは、説明がないからだ。


自分と作品との距離感の中で、

意思の疎通を図り、

対峙することで生まれるものだ。


そこには、余計な説明は不要なはず・・・。




そういう感性は、実に大切な感覚だと思う。





人間は、生物の中で唯一【コトバ】を手にした。


言語によるコミニュケ―ションを獲得したことで、

他の原人よりも優位に立った。


ホモサピエンスが地球上で生態系の頂点に君臨できたのは、

創造性と言語の確立だ。


しかし、我々は言葉という実に曖昧なツールによって、

本来の感性を鈍らせてしまった感も否めない・・。





言葉は、表面に出ている一部分にしか過ぎないということを

改めて知るべきだ。




言葉も表現物と同様であるということだ。


その向こう側を感じ取る必要があるなら、


言葉もアートだ。




しかし、アートを言葉で説明するのは、とても野暮なことだと思う。





この世には、言葉では説明のできない領域の事柄が沢山ある。


言葉にして伝えるべきことと、

伝えなくてもいいことがある。


そんな話です・・・。


 
コンディションを創造する




仮名【体験型食空間】


キャプション


20xx年、○月○日。


彼は、いつものように仕事に出かけた。


仕事は、いつも単調だ。


この厨房にも、この客席にも、

この土地にも、


そして、自分が創り出すこの料理にも飽き飽きした。




どうしてこの先に進めないのだろうか?


最高の感動体験をしてほしい。


【未だかつてない食の体験を僕は想像し、創造したいんだ。】


突然、彼はスタッフにこう告げた。

【もう全てのことに飽き飽きしたので、今日をもって全てをやめる】







彼は、本気だった。

すぐに車を走らせた。


彼は、海を探し、山を探し、畑を探し、森を探した・・・。


あての無い旅ではない。


彼の中には、明確なイメージがあった。




最高の美味しさを普通の環境で提供するには限界がある。


誰もが見落としていることがある。


誰もが、目の前の料理が最高であれば、

最高に感動してくれる・・と思いこんで疑いもしない。


彼は、ずっと前からそれが疑問だった。

そして、そこを疑っていた・・・




何故、食べる側の状態を知ろうとしないんだ?




食材も最高、設備も最高、スタッフも一流を集め、

最高の仕事が出来るようにこれ以上ない労働環境も用意した。


でも、料理は出して終わりではない。


最終ミッションは、相手を感動させることだ。


でも、相手が今どのような状態であるかについて、

我々は知ろうとしていなかった・・・


ずっと疑問だった点は、そこだ!




僕は、まずそこから考え直した。




“最高のコンディションを相手に与えることから始めよう”





勿論、自分の体調ではない見ず知らずのお客様のコンディションを

コントロールすることは、もはや料理人の範疇ではない。

しかし、

範疇を越えていかない限り、新しい可能性は生まれない。




自分が料理人であり、その本分がなんであるかを決めるのは、自分でしかない。

まずは、自分の中にある【料理人】というフォーマットを壊していくことからはじめよう。




彼は、究極のガストロノミーを探求すべく、

新しいスタイルの宿泊型レストランを創ることにした。


ホテルでも、レストランでも、オーベルジュでもない・・・

既存の呼び方やカテゴリーは、もはやどうでもいい。




皿の上・・という小さな枠からはみ出し、

箱全体・・いや、環境も含め、

全てを料理の一部と捉える感覚が必要だ!


それは、過ごす時間が全てコースの一部であることをテーマにした、

“宿泊体験型美食空間”である。




いくつか新たらしい試みがあるが、

目玉となっているのが、

【お客様のコンディションを創造する】という試みだ。




我々がターゲットにしている顧客層は、

普通の人ではない。


プロ、ジャーナリスト、富裕層、

そうした世界中の一流ホテルやレストランを知り尽くしている人たちだ。


そういうお客様は、決まって暴飲暴食・・・

連日、外食が続いている人も珍しくない。


そういう人は、

基本忙しくて、時間に制限もあったり、

旅で疲れていたり、

当然、食べることにも疲れていたりする・・・。




提供する側としては、

それだけ、状態が悪いところからスタートしないといけない。




それを前提に、ディナー前日の体調と精神状態から

こちらでコントロールする試みだ。


宿に着いたその瞬間から、

実は、この店のコースは始まっている・・・


お客様は、そのことには全く気付いていない。







キャプション


お客様が到着。


この施設には、チェックインはない。


コンシェルジュが笑顔で迎え、


まず、真っ直ぐにある場所へと通される。


この場所の一番の決め手となった、

【聖なる湧水】の場所だ。




お客様の今の感情は?

早く、ゆっくりしたい。

早く、座りたい。

早く、渇いたのどを潤したい・・


その感情をぐっと我慢していただき、

彼女は、手短にテンポよく、

こんな話をする。




この土地の歴史背景。

この水の神話。

この水の効能。

この水が全ての調理に使用されている話。


全ては、ここから始まる。


“人の感情をデザインする”ことをテーマにしている我々の

もっとも重要なパーツが、この水のくだりだ。




この儀式によって、

全てのお客様は、リセットされ、そして引き込まれる。


説明も早々に、部屋に案内されると、

さきほどの水が“完璧な温度”でサーヴィスされる。




窓からは、海。

逆サイドの窓からは、畑と牧場、そして山。




壮大な自然を背景に、

完璧に調和された室内のデザイン。




そして、寛ぐことにもひと段落した頃合いで、

ふとテーブルに置いてある“カード”が目に留まる。




開いてみると【ここでの過ごし方】が明記されている。





我々のミッションとお客様の目的がひとつであることを

確認し、その為に準備して頂きたいことや注意してほしいことが

簡潔に書かれている。





ここに訪れる時点でお客様も十分にそれを理解した上で、

予約されており、その具体的な内容がそこには示されている。




全ては、明日のディナーに向けての準備であることを・・・





キャプション


我々チームには、明確な役割分担がある。


・総合ディレクター

・シェフ・クリエイティヴ

・シェフ

・部門シェフ

・キュイジニエ

・アート・ディレクター

・音響デザイナー

・グラフィックデザイナー

・空間ディレクター

・照明デザイナー

・サーヴィス・ディレクター

・サーヴィス

・コンシェルジュ

・フード・アシスト

・メンタル・デザイナー

その他、宿泊と温泉、スパには、

それぞれの担当者がいる。


宿泊は、10部屋オールスイート。

1室4名まで可能で、

最大で40名。最小で20名。1名は受けない。




・・・


具体的なルール説明が終わり、

夕食までは、特に何もない・・・


時間にして3,4時間程度は自由である。

散歩する者、

温泉へ行く者、

スパに行く者、

部屋で寛ぐ者・・・





宿泊当日の夕食は、

質素である。


内容は、実に計算されたものが提供される。


ここでも、お客様には、意図は伝えない。


しかし、この夕食は、

明日のディナーと繋がっている。


全ては、新しい感動の為。




そして、

翌日を迎える。


この時点で、バラバラだったお客様の状態が、

大まかに同じラインで揃う。




ここにいるお客様全員に、

同じ施術を行い、同じ空間で、同じ夕食を食べ、

同じ時間の流れを感じてもらった。

その成果が出始めるのは、

丁度、この【翌日の朝】というラインである。




ここにはもう、疲れている人もいないし、

食べ過ぎの人も飲み過ぎの人もいない。

イライラしている人も、懐疑的な人もいない。


リラックス、安堵感、解放感、期待感・・・

空腹すぎる訳でもなく、勿論満腹なワケもない。

色々な仕掛けによって、それ以外にも、

味覚、嗅覚、視覚など【感じる】能力が高まるように、

前日から仕込みされている。




前日から仕込まれているのは、それだけじゃない。

お客さまには“渇望”を与えている。




これは、我々にとってとても重要な“キーワード”である。


意図的に“渇望”を創りだし、提供しているのだ。







キャプション


朝食も選択脚はない・・

朝、お客様には同じ時間、同じ場所、

同じメニューを食べて頂くシステムになっている。




朝食を終えて、ランチタイムまでは自由だが、

昼食も基本、朝食と同じライン。

皆が揃って同じもの。




ここまで来ると、いよいよ少し苦痛になる者も出てくる。


ここが限界。


普段、我儘な人たちが多いここの顧客にとって、

楽しくルールを受け入れながら、渇望を与えられる【限界】が丁度このあたり。


しかし、丁度このラインが来店して24時間経過のラインでもある。


朝の時点で大体揃っていた【状態】もここまで来ると

ほぼ完全に揃い始める。




ここからが最後の仕上げだ。





昼を終えた、14時から17時までの3時間は、

行動制限と食事制限がある。


完食はNG。

飲み物は水のみで500ccまで。


行動は、宿泊施設の周りを囲む、

海、山、畑、牧場・・

この4か所を案内。




今夜のディナーは、すべてこの4か所から生まれた食材だ。


お客さまには、全ての食材を実際に見て感じてもらう。


この4か所には、【フード・アシスト】がそれぞれ常駐してて、

海には海のプロ。

山には山のプロがおり、

食材の背景、性質、どのような料理になるのか・・

そして、いつ採れたものをどの温度でどのように提供すると

最大限ポテンシャルを生かせるのかを説明する。


しかし、どのエリアにいっても、

試食はさせない。


渇望と期待感、そして空腹だけがどんどん加速する。





キャプション


18時ジャスト

とうとうディナーが開始される時間が来た。




一同に、メインのレストラン空間に集まる。




お膳立ては全て完璧に出来上がっている。


ここからが彼らの出番だ。


ここでは、料理ごとに【照明】も【音楽】も変化する。


レストランスタッフ以外にも、

そうした演出を担うプロがこの瞬間の為に準備をしている。




いよいよディナーがスタート・・・










第二部へ続く・・・。







この物語はフィクションです。


ただの私の妄想です・・(笑


 
現実




僕は、リアリティーを描きたい。


現実離れした、架空の世界の中に、

リアルな現実を描く・・・




言葉にすると理解しがたく、

矛盾に満ちているが、

これこそが、僕の表現。




僕の創る世界は、

矛盾に満ちていて、

現実とかい離してる。


だけども、僕はいつも現実の中で妄想していて、

現実を描こうとしているんだ。




・・・


今回、僕は6枚の絵を創造した。


今までにない世界観を出力したかった・・


結果は、どうだろう?


そして、どうであったかなんて、


もはやどうでもいいこと・・・


僕は、あの日、あの瞬間を出力しただけのこと。


それ以上でもそれ以下でもない。


そして、もはや、それすら過去の出来事。


自分の中では、全ては消化された。


自分が過去に描いたものに、


なんの執着も興味ない。


鮮度が失われたものに、僕は何も感じない・・・





僕はまた新しい表現を探している。


・・・


最近、パリでまたテロがあった・・・


こんなことが起きると、


平和ボケしているせいか、


急に緊迫したムードが漂う。


だけど、それが日常の地域も世界には沢山ある。

緊迫したムードや楽しいことに対する自粛ムードが漂うのは、

平和な地域であって、


逆に、日常の中で

毎日、ピストルや爆弾の音が聞こえ、

そこら中に死体が転がっているような場所では、

何もムードなんて変わりはしない・・・

むしろ、笑い飛ばして生きていくほかない。


それが現実だ。


・・

僕の中には、二つの考えがある。

テロや戦争もある意味【自然界の一部だ】という考え。

もうひとつは、理屈抜きで断じて許せないという考え。




僕は、昔から【人間も自然の一部である】という基本的な考えのもと

色々なことを判断して生きてきた。


小さな微生物から数十億年という歳月をかけて、

生命は進化して、その中に木や虫や動物がいて、

その動物の中に我々人類も属している。


人間だけが特別な存在であり、

人間がすることや創りだしたものは【人工】で、

それ以外が【自然】がもとになって起きた【自然現象】だ・・

という考えは間違えだ。


人間も、自然の一部だ。


人間だけが何も特別なんかじゃない。


そのことに対しては何度も触れてきた。


生命の進化は、生存競争によって淘汰されながら、

勝ち残った種が子孫を繁栄させ、次世代に自分の種を残す。

勝者である優れた種が残るということは、

その時代の環境に適応して変化してきたということだ。

その繰り返しが【進化】だ。


生物には、そうした遺伝子が組み込まれている。


生存競争は生物の【本能】だ。


問題は、戦い方だろう・・・


もし、人間という種が他の生物よりも優れており、特別な存在であり、

進化を続けているというなら、

テロや戦争といった方法での戦いから足を洗うべきだ。


しかし、全く止める気配は感じない。


結局は【種の繁栄】という原始的な本能のまま、

今の時代を生きている。


ここでいう【種】とは、人という大きなくくりじゃなくて、

【国家】や【人種】であり、あるひとつのコミュニティーだ・・・


自分たち【同胞】を守り、繁栄させる為に、

敵対する【誰か】と戦い、そして【消そう】とする。




これは、言葉で言っても意味が無い。

残念ながら・・

これは、生物としての【本能】だ。





これがひとつの考え方。





でも、この考えにリアリティーがない。


自然のすることなので、仕方ない。

とか、

生物の本能なので、仕方ない。


現実には、そうは言えない。




僕たちは、現実の中で毎日を生きている。




・・・




年が明けて、来年の1月にパリに行く。


随分と前から決まっている予定だ。




僕には、18歳になる娘がいる。


娘をフランスに留学させる。


高校卒業してすぐに家を出す。


流石に少しは、不安なので、


現地に慣れさせる為にも、

下見として、パリに行くことにした。




初めていく親子フタリでの旅行・・

ここ数年、あまり会話も無かったので、

父親としては、いい思い出だ。





でも、もしそこでテロにあったらどうだろう?


もし、別行動の時に

娘だけに何かがあったら・・・。




そう考えるのが【現実】だ。




生物の進化や

本能などとは言ってられない。




・・・


二つ考えがあるというのは、


つまりそういうことだ。


受け入れるべき自然現象と

受け入れることが困難な自然現象がある。




テロや戦争といった【自然現象】は断じて受け入れることができない。








・・・


我々は、世界で戦争が起きても、

身近なところでテロが起きても、

自分の人生や自分の日常を毎日、生きていかなくてはいけない。




大切な家族を守らなくてはいけない。




今、自分が何をすべきで、

誰を守り、

誰を幸せにするべきなのか?




そして、何を受け入れて、

何と戦って生きるべきなのか?




リアルな現実の中で、

僕はそう考える。




リアリティーのない、

言葉も作品も、

僕には興味が無い。




僕は、僕の現実と向き合って、

今を生きるしかない。







だから、今何をすべきか?という問いには、

僕は、答えない。


それは、僕の中では何も変わらないからだ。


今までと同様に、

今という現実を生きるほかない・・・




それが【現実】であり、

それが、今自分に出来ることだと思う。











 
気楽な作業









パソコンの中に、書きかけの文書が随分と溜まってきた・・・




これは、いつものことだ。


頭の中にも、言葉として出してしまいたい

新しい文書も随分と溜まっている。


これも、いつものことだ。




この感じだと、今月か来月、


或いは、来年の頭あたりには、


一気に出力され、アップに至るだろう・・・


とは、思うが・・

かなりコンディションが良くないと

納得のいく文書にまで至らない。




言葉の繋がりの連続が文書なのだが、

ちょっとした言葉の表現が感じているニュアンスと異なるだけで、

自分的には、もうその文書は没。




もっと言うと、言葉以前に、

一文字しっくりこないだけで、

全てがダメに思えてしまう。


それは、音楽や絵画、きっと映画作りなんかでも同じだろう・・・




僕は、料理以外にプロとして仕事をしたことがないので、

その他のジャンルの制作過程において、

何処までディテールにこだわっているかは知らないが、

どの分野も突き詰めるところは同じだと思う。


・・


料理の現場は、非常にそれが難しい・・・


僕にしてみると、妥協の連続だ。


NGが出たのでカットも出来ない。

音が気に入らないので、一小節だけ録り直して編集で繋ぐこともできない。


出来あがった文書を読んで、気に入らないので、

いい言葉が出るまで寝かすことも出来ない。


打ち間違えた文字を一文字消すことも出来ない・・・




営業中、一皿を作るのに、

本当に納得のいくまで時間をかけることも出来ない。




日々、客は訪れるし、

日々、来る食材も違う。


日々、自分の感情も異なり、体調も異なる。

スタッフは、もっとブレがあるし、ミスをおかす。


・・


長い歳月をかけて、

ひとつの料理を考案し、

綿密なシュミレーションをして、

何度も試作を繰り返し、

やっと形になって、

次に、本番でのオペレーションを想定して、

各スタッフに現場での動きを完璧に落とし込む。


それが、出来あがって

いざ本番を迎える・・・


しかし、実際は、

自分が完全なイメージの中にあった【ソレ】とは、

はやり相当に異なる。

【相当】かどうかは、感じ方次第だが、

自分には、相当な違いだ・・・




それが、いいとか悪いとか、

そんな話ではない。


それが、料理の現場の姿であるだけのことだ。


・・

自分にとって、文書を書くことは、

料理と違って、特にストレスはない。


気分が乗らなければ、書かなければいいだけのことだし、

もし、ダメな文書ならゴミ箱に捨てればいいだけだ。


ごみ箱行きにしなくても、

途中でダメと思えば、1年でも2年でも、パソコンの中に放置しておけばいい・・


そう・・・とても気楽な作業である。


なのに、自分はどうしてこんなにも、

言葉や文書というものに執着するのだろう・・・


たった一文字が気に入らないだけで、

全てが嫌になる・・・





ここまで書いていて、

既にこの文書が気に入らない。




没にしようか?

とも思うが、

それをやり続けると、

永遠にアップができない。




ある意味、料理のように、

待ったなしの世界のほうが、

気楽なのかもしれない。


勿論、責任とプレッシャーは相当あるが、

目の前にお客がいて、

【作りましたが、気に入らないので捨てました・・】とは言えない。


出すしかないのです。


しかも、もれなく

その出したものは、胃袋に収まるか、

洗い場に下げられるかのいずれかであり、

現物は、作品として残ることがない。


リピートして読み返したり、

何度も聴き直したりもされない。


料理は、消える作品だ。




待ったなしで、消える作品である。


ある意味、それは気楽と言える。




果たして、


それを気楽と言えるかどうか?


その辺の感覚は、料理との向き合い方にもよるだろうな・・・。


適当にやっているから言える場合もあるし、

真剣だからこそ言える場合もある。


でも、おそらく

答えは、後者だ。




始めから、適当にやっている人は、

それを気楽とも思わない。


間違えなく、思わない。




消えるものを作る気楽さ・・




それは恐怖と紙一重の中にあると思う。











 
生態系自然観



この世には、役割というものが、

それぞれに割り当てられているらしい・・・。




・・




自然界には、5つの【界】が存在し、


それぞれに明確な役割が与えられている。


動物界、植物界、菌界、原生生物界、モネラ界。


一般的にこれが、五界説と言われているものだ。




・・


植物は、生産者だ。


光合成により、無機物(二酸化炭素と水)から有機物を合成する。

つまり、光エネルギーは光合成によって有機物のエネルギーに変換されたことになる。


動物は、それらを取り込む消費者だ。


われわれヒトは、その中に属する。


動物たちは、やがて死を迎える。


それをまた無機物に戻す役割を果たすのが、分解者である菌類である。




生産者→消費者→分解者。


これらの役割の違いで、生態系が循環している。


こうした生物の割り当てられた【役割】を僕はいつも眺めている。


【生態系自然観】


この言葉が好きだ。




自然の中には、絶対に乱れることのない、

【秩序】が存在している。


役割を果たさないものなどいない。


それぞれが、ミッションを全うする。




それぞれが、自分の役割を遂行し、

確実に仕事をこなすことで、

生命は循環している。





当たり前に行われている、


この循環を僕は、いつも【神秘】だと思って眺めている。




僕の人生観は、そこにある。




だから、いつも自分の役割について考える。




生物としての自分の役割。


家での自分の役割。


社会での自分の役割。


会社での自分の役割。


業界での自分の役割。


日本においての北海道の役割。


世界においての日本の役割。




自分が関わるもの、所属する集団。


全てにおいて、役割があるはずだ。




自分が生かされている以上、

その役割を感じて、役目を果たすことが生きることだと思っている。




そのためにも、僕は自然を深く知る必要がある。




自己を探求する為に、

僕は、自然の中で生きている。





ほんの小さな庭程度の林の中でも、

自然を知る上で、十分すぎるほどの営みが存在する。





・・・




何も生まないものなど無いと思う。


どんな人にも、役目があり、


何かの役に立っている。


ただ、ヒトは愚かなので、


役割を間違える生物だ・・・


時折、無意味なことをする。


マイナスしか生まないようなことをする稀な生物だ。







戦争や核兵器の開発がソレだ。





今日は、終戦記念日。


あれから、70年。





無駄な時間とエネルギーを未だに費やしている。







そんなやつらは、とっとと菌類に分解されて、

無機物に変換されたほうが、よっぽと役に立つ。




水と空気に変換されるべきだ。







・・・


戦後70年。


唯一の被爆国である日本。


日本人である我々が、


未来に何を残せるだろうか?







生態系自然観の中から、


僕は、考えたいと思っている。














 
ヒーロー








子供の頃、クラスにヒーローがいた。


背が高く、運動神経抜群で、ハンサムだった。


ケンカも強く、ガキ大将だった。


何をやってもズバ抜けていて、いつも1番だった。


彼とは、クラスも同じで、


少年野球のチームメイトでもあった。


僕は、何をやっても彼に敵わなかった。







彼は、いつもヒーローだった。







彼が何かで負けることなど、誰も想像できなかったし、

彼が何かで挫折することなど、ありえないと思っていた。





彼は、中学に入ってからもヒーローだった。


エースで4番、1年からレギュラーだった。


いつも、周りに期待され、

そして、その期待にいつも答えていた。




高校は、野球推薦で、名門に入った。


そこでも、彼は頑張って成績を残した。


残念ながら、甲子園には行けなかった。


残念ながら、プロのスカウトも来なかった。





彼は、諦めず社会人野球に入った。


彼は、そこでも成績を残した。


彼の活躍を新聞で見た。


野球の記事だ。


活字で出ていた。





その後、彼は体を壊した。


20代半ばで引退した。


子供の頃から野球一筋だった。





彼は、家業の葬儀屋を継いだ・・・




ボランティアで少年野球の監督もしていた。








彼は、いつ挫折したのだろうか?





高校時代か?


社会人野球の時か?


怪我をした時か?


葬儀屋を継いだ時か?







それとも・・・











・・・


彼は、いつもヒーローだった。





きっと、それでいいんだろうな。





人の人生の何を切りとり、


何処時点でどうであるかなんて、


本当は、大したことじゃない。













僕は、挫折したことがない。


挫折ってなんだろう?







子供の頃から、ちやほやされたこともないし、

間違ってされたとしても、

勘違いだけは、しないでおこうと心に決めていた・・




始めから、他人と比べたりしたこともないし、

比べたとして、そう大した変りなどない・・と思っていた。







天才ばかりを集めた集団には、必ずビリが存在するし、


ビリを全国から集めれば、その集団の中には必ずトップが生まれる。







優越感も、


劣等感も、




所詮、周りとの対比に過ぎないじゃないか。







集団は、残酷な生き物だけど、


それを無視して生きることは難しい。




何かしらの集団の中でヒトは生きているものだ。







出来るだけ、早くに気付いたほうがいい。





何にかというと・・・


全ては、もう既に書いてあること。





そういうことに早めに気付いたほうが、幸せだと思う。











 
執念






執念という言葉がある。


【ある一つのことを深く思いつめる心】


【執着して、そこから動かない心】


辞書には、そう書いてある。





・・




物事、執念さえあれば、

何事も成せるような気がする。


逆に、

何かを成し遂げる為の能力を持つことより、

執念を持つことのほうが難しいと思う。


分かり易くというと、

能力や才能があるからといって、

やる気がある訳じゃない。


ソコに執着し、ソレを成し遂げたいという

強い想いがなければ、何も掴みとれない。


・・


執念を持つというのは、

ある意味、馬鹿と紙一重の状態だ。


誰もが諦めているようなことを

諦めない心とは、

一歩間違えば、身の程知らずになるからだ。




極端な例えを挙げると、

今、自分が大リーグ選手を目指してます!と

言ったとして、

それは、バカでしかない。


そこに執念を燃やせるのは、

相当に頭がおかしい。


ある程度、射程距離圏内じゃないと、

普通の人は、執念を燃やせない。


・・


勝負になったとき、

一番怖いのは、実力じゃなく、

執念だと思う。




執念がある人は強い。


想いは、あらゆる困難を可能にしてしまう。


執念があれば、困難は困難じゃなくなる。


どうしても欲しい。

どうしても成し遂げたい。


その強い想いは、全てを凌駕する・・


不可能を可能にするのは、

能力でも才能でもない。


執念だ。




・・・




今、ポンコツ・シェフに成り下がった自分にも、

執念はある。


今何に執念を燃やしているか?







当然、このポンコツ・ボディーだ。


治らないはずはない。


今年中には、絶対に治す。




あるとあらゆる可能性を見つけ、

ありとあらゆることを試す。




ここまでやってダメなら諦める・・という選択も持たない。


どこまでもやる。


それが執念というものだ。




・・・・




もし、この執念が勝って、


自分の体が復活した時には、


皆に言ってやるっ。




「俺は、執念で普通の体を手に入れた!」と・・・




きっと、その時、

こう言い返されるだろう。


「もっと別のことに執念を燃やしたほうがいいんじゃないの・・」と・・・








確かにその通り。





そして、俺はその言葉を聞き流し、


普通の体を手に入れたことに感謝し、


普通の生活を送る・・・


 
発想






僕の商売道具の中に、

いくつかのツールがあるが、

一番大切なものは【発想】だ。





いろいろな世界の他人の表現をみて、


一番、感動するのも、

一番、悔しいと思うのも、

【発想】だ。


最近、悔しいという感情自体が既に湧かない年齢に達しているが、

昔は、発想レベルで負けた・・と感じた時は、

悔しいと感じたりしたものだ。




自分が思うに、

【発想レベル】で殆どの勝敗はついている。


あとは、それを具体化して発信する力が必要なんだけど、


ここからは、別の実力というか、別の能力が必要だ。


そういうことが面倒な人や

発信能力が無い人は、


埋もれるか、

ネットのようなコミュニティーで地道な活動をするしかない。





・・


何か素晴らしい作品を世に送り出す為には、


発想する人


具体化・システム化し、アレンジする人


伝える人




大まかにこんな流れがあるとして、


色々な異なった能力が必要だが、


発想という原点なしに、

次の工程には入れない。





つまりは、発想が全てであって、

発想力こそが、

作品の根幹にある。





・・・


そもそも、人が考えもしないようなことを


パッと思いつくのに、


努力もへったくれもないし、


これといった方法もない。


頭を叩いてみたり、


逆立ちしたところで、


何も閃かないし、

何も浮かびもしない。




こういう神がかり的な領域に存在する【発想】とは何か?


何か分からないので、


行き詰って、クスリとかに手を出したりする人がいたりします・・





ある意味、得体のしれないモノだ。




・・・


この先、自分に何ができるか分からないが、


この【発想】という、もっとも興味のある分野に


もっと時間とエネルギーを注いで、


新しい扉を開いてみたいと思う。







 
ちなみに、コレは


ミュゼのロゴマーク。










こんなものがあることを自分以外誰も知らないが、


実は、存在している。





これには、様々な意味が込められている。





一体、何に見えるだろうか?





もし、分かる人がいたら、




その人の発想レベルは凄いと思う・・・





 

 
表現しないこと。







僕がもし画家なら、自然は描かないだろう。


自然というのは、そのままの意味で、


森や岩や空や・・・雪景色・・・


今まで、自分が料理で描き、モチーフにしてきたものばかりだ。


でも、もし僕が画家ならそれらを描かない。


何故だろう・・・


・・・


僕は、料理で感情は描かない。


僕には、料理で愛を描くことはできない。


・・

もし、僕が画家なら、


人間しか描かない。


しかも、幸福は描かない。


悲しみや絶望も描かない。


描きたいと思うのは、人の持つ無表情な素顔だろう。


それは、まるで能面のような、

感情があるのか無いのか分からないような素顔。







ここに一枚の絵がある。




【寄り添う二人】が描かれている。



ここに感情があるのか?


ここに愛はあるのか?


ここに幸福があるのか?


ここに悲しみや絶望があるのか?




描かれてはいない。







描かれていない部分に何が描かれているのだろうか?

















もし、僕が画家なら


目に見えない世界を描きたい。