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余白を埋める
モノ作りの楽しさは、余白を埋めることにある。
余白とは、自分がまだ知らぬ未知の部分であって、

その余白が埋まっていくにつれ、作品の完成度は高まっていく。
ここまでやってみて、もうこれ以上上手には作れないだろう・・と、

技術の完成にたどり着いて尚、いや待て・・まだ、ここの部分を改善すれば、

もう一つ上のレベルで作れるんじゃないか?

そんな感じで、どこまでやっても、余白に気づけるか?がその人の伸びしろだったりする。

初めて取り組む仕事は、余白だらけでとても難しくもそれ以上に楽しい。

この年になっても、初めてやる仕事はワクワクする。

初めは必ず失敗する。手ごたえを見る作業なので、失敗しないと意味もない。

そんな浅い完成は、はじめから望んでいないので、それでいいのだが、

最初の失敗からどれだけ多くの余白に気づけるか?がポイントになる。

おそらく、能力の差は、そういう部分に顕著に出るのじゃないだろうか。

一連の作業工程の中で、コツのいる部分は何処なのか?

逆に、さほど気にしなくてもいい部分は何処か?

自分の中で、修正すべきポイントは何処か?

自分の中で、理解しきれていない箇所は、どの部分か?
そんな感じで、ひとつの技術を習得するプロセスが必ずあって、

そのプロセスさえ自分の中で、整理されていれば、

どんな新しい仕事も、ある程度の段階までは数回で習得できる。
習得した技術を更に上の段階まで磨こうとするには、

先に言ったように、ひとつの技術を自分のものにしても尚、完璧じゃないことに気づく、

つまり・・余白がまだあることに気づけるかどうか?

そこしかない。

・・・

思えば、自分の料理人人生は、余白だらけだった。

事前に情報を与えられたり、完成形を見せてもらったり、

作業工程をお手本として見せてもらうような環境はなかった。

お陰で、どんな作業でもゼロの状態からそこそこの段階まで、

技術向上させるプロセスを身に着けることができた。

これは、自分にとっては幸運だったのかもしれない。

タイプにもよるだろうけど、

自分の場合、答えが出ているものを

決まった通りの工程を踏んで、完成させるような仕事は不向きだ・・・

非常につまらない。

せっかくの【余白】をはじめから埋められているようなもので、

自分の中にある想像力を遮断されているような気がする。

料理の楽しさや醍醐味というのは、

体を駆使し、手を動かし、色合いや香りといった、

刻々と変化する状態を見極め、イメージされた状態に近づける・・

その工程全てが楽しいわけであって、上手くいかないこともまた楽しさの一部だ。

一度、距離を置いて頭の中で工程を整理し、

イメージを膨らます。

あの作業の時に、もう少し長く間を置けば、ここがこうならなくて済んだのかな?

いや、それ以前に、あの分量を少し減らして、あの材料の比率をあげよう・・とか、

そういう【想像】の中での作業を、また改めて次の機会でチャレンジする。

“やっぱり! 自分の思った通りだった。”

そんな風に、もの作りとは、完成に至る過程、プロセス自体が楽しいのであるが、

中には、そのプロセスを楽しめない人もいる・・・

・・・

モノ作りの楽しさは、余白の中にあるというのに、

余白を楽しめない人は、

喜びもなく、成長もない。

僕は、それが残念でならない・・・
描写力
絵画において描写力を競い合う時代はある時期に終わった・・。
技術は研究され尽くし、
カメラという発明も後押しした。

本物そっくりに描くより、
本物を超えるリアリティーを描くことに価値を見出した。

それが抽象の世界だと思う。
絵画の歴史も【創造と破壊】によって、
新しい扉が開かれた。

それは、ガストロノミーも同じだ。

フランス料理に本当は、クラシックもモードもない。

古典と前衛があるとするなら、
それは、あくまで【過去と現在】だ。

僕は、過去を懐かしむことがあったとしても、
過去を表現したいとは思わない。

古びた感性を掘り起こし、
あたかもそれが正しいかのような振る舞いは、
感性のない人が、ノスタルジーな世界に
ひとり酔いしれているだけだ。

料理にも色々な種類があって、
気心の知れた仲間とワイワイやりながら
気軽に当たり前に美味しいものを安く食べられる店もあれば、
アートを鑑賞するように・・
或いは、映画やコンサートに出かけるように、
ある作者の感性に触れるために訪れる店もある。

今のガストロノミーとは、後者であって、
万人が必ずしも喜ぶとも限らないし、
高い食事だからといって、その人が【美味しい】と
感じるという保証もない。

作者は、過去から学び、時に過去を否定しながら
【今】という時代を皿に反映させ、
【今の自分】を皿に表現する。
そのあくなき探求心こそが、
いつの時代も料理を発展させ、進化させてきた。

もし、そこを否定するなら、
今、クラシックと呼ばれる料理も存在しない。
当時は、クラシックではなく、
【ヌーヴェル】だったのだから・・・。

【革新的】なものを否定するような人は、
歴史を否定するのと同じだ。
いつの時代も【保守】は存在するが、
保守が歴史を変えることはない。

過去にしがみつきたい人に
歴史を変える勇気も才能もない。

【創造と革新】こそが、
僕の信じる道であって、
そして、我々人類が歩んできた歴史そのものだと思う。
・・・
人間の進化は止めることができない。

長い長い歴史の中でそれを繰り返し、
進化できなかった種は、滅びてきた。

進化は正に【種の保存】の原理であって、
次世代に種を残そうという本能が進化を促してきた。

我々の業界も進化の歴史の中にある。

クラシック・・なんていう料理は存在しない。
その料理も昔は新しいわけだし、その時代に生きた人が
ノスタルジーで作っているか、新しい発想がないか、
或いは、感性が古臭いだけか・・いずれかだ。

古臭い料理、今を表現している料理、時代の先をいく料理・・
あるのは、ソレだけだ。

ただ、本質的に原理原則を捉えた【変わらない料理】もある。
それはクラシックというより、その人が見つけた真実であり、
その人の【オリジナル】だ。

・・

時代は進む。
僕は、ここ4,5年で色々な挑戦に出ると思う。
ル・ミュゼという箱に、この12年で実に2億も投資した。
それは、とても重たいものであったし、実にエキサイティングで
スリリングだった(笑
それは、あと数年で終わる。
そして、それは、新し始まりだ。
大幅にお店をリニューアルする予定。
また、更に投資する。
それは、今を表現する上で必然的なことだと思うから。
メッセージ

 

 

何も案ずることはない。

 

 


自分の知る限り、人生は苦難に満ちていることに変わりない。


だから、何も心配はいらないと思うよ。


心配したところで、


苦難から回避など出来ないのだから・・・



だから、何も案ずることはない。


何も心配はいらない。


そして、上手に人生を生きようとなんて思う必要もない。


むしろ、若いうちは出来るだけ悩んだほうがいい。


今の自分に満足なんて出来ないのだから、


成長しようと思えば、悩むことは必然だ。


もし、そこで何も悩まないようなヤツは、


5年後も10年後もなんの成長も変化もないよ。


ただ、細胞が劣化しただけのことだよ・・


・・


仕事を選ぶ時のポイントは、


金や待遇じゃない。


実は、金と待遇は、自分次第でどうにでもなる。


今の自分への評価が低いのは、当たり前だ。


だってまだ、なんの役にも立ってないし、


なんの結果も出してないのだからね。


でも、明日や1週間後、半年後、1年後の自分は、どうだろう?


もし、自分が成長し、人の役に立つようになり、仕事の中で結果が出れば、


金と待遇は変わる。


そう、自分の問題であって、


変えることの出来ないことじゃないんだよ。


でも、社長の人格や会社の方針は、


自分の努力じゃ、どうにもならない。


だから、仕事を選ぶ時のポイントは、


社長の人柄と会社の理念だ。


将来の自分にとって価値のある時間を過ごせるかどうか?


自分という人間を消耗品ではなく、


一人の人間として、きちんと評価してくれるか?


若い人間の労働力を足元を見て搾取しているだけの人間や会社だって、


この世の中には、沢山存在する。


そういう社会の中の消耗品にはならないでほしい。


だから、その為にも自分の意思を強く持ってほしい。


はじめは、誰しもが自信もないし、能力もなく、なんの役にも立てない。


だけど、それとこれとは話が違うんだよ。


自分の立場はわきまえるべきだけど、


自分の考えは、きちんと伝え、そして、その意思を曲げないように。


それは、責任は取らないけど、自分の主義、主張だけはする人とは違う。


仕事の中で、きちんと責任は果たさないといけない。


その中で、自分として言うべきことは相手に伝えるべきだ。


社会の中では、結果が全てだ。


若く、未熟なうちは、なかなか結果が出ない。


だけど、素直さや謙虚さ、情熱や愛情は、全ての結果に結び付く。


もし、それが備わっているなら、


何も案ずることなどないよ。

 

それこそ、お金では買うことができない。


だから、才能だとか、自信なんかは、なくていい。


まずは、素直な心。


今と真剣に向き合えるか。


更に、人に対して誠意を持って、きちんと愛情を傾けることができるなら、


それだけで、十分すぎるほどに、十分だ。

 


この世の中の仕事で、


それを擁しても、結果が出せない仕事は、


特殊能力を必要とするような世界だけであって、


殆どの仕事は、それだけあれば十分。


あとは、明るさと健康。


健全な精神と体さえあれば、何にだって立ち向かえるし、


どんな困難も乗り越えていける。


今からなら、殆どのことに挑戦だってできる。


若さは、刹那であり、純粋で、もろく、


儚いものだけど、


可能性に溢れているじゃないかっ。


それも、またお金では買えない。


どうか、今という時間、

 

【若さ】という素晴らしいものを大切にしてほしい。


・・

 


知らない場所で、ひとり、初めて暮らすことは不安だらけだと思う。


当然、最低限度の生活を築く上で、お金は重要だね。


お金は、ある程度の安心を買うこともできるかもしれないし、


自信や豊かさにも繋がる。


貧困は、妬みや卑しさ、時に犯罪を産む温床にもなり得る。


だけど、そこまで極端な生活以外は、


最低限の収入で、どうにか生きていけるものだよ。


その収入に合った暮らしをすればいい。


それは、本当の意味での貧しさとは違う。


自分に対する貯金だと思えばいい。


そうはじめから考えることが出来る人は、


時間に対して、投資が出来る人。


今、自分に蓄えるべきは、貨幣ではなく、


精神であることに気づけるかどうかだよ。


今、手元に貨幣がないだけであって、


未来の自分への貯金をしていると思えばいい。


その変わり、しっかりと意思をもって、


毎日を真剣に、


毎日を大切に生きて欲しい。


・・


人生は、なかなかに難しいものだね・・


なかなか上手くいかない。


思うようにいかない事の連続かもしれない。


そして、誰かが言ったように、


【人生は一度きりの実験のようなものであり、
リハーサルの無い、ドラマのようなものだ】


そう、やり直しはできない。


一度決めた道をタイムスリップして逆走することはできないよね。


だから、迷ったり、


時に臆病にもなったりする。


そして、決めたあとも、


本当にこれで良かったのだろうか?と


思い悩んだり、後悔することだってあるかもしれない。


だけど、それも仕方のないこと。


やらなかったよりは、まだマシだよ。


少しでも前に進めたほうがいい。


自分の意思で決めて、


自分の進もうという気持ちに素直に向かったなら、


もし、よい結果が出なかったとしても、


それでいいじゃないか。


安全な道なんてない。


少なくとも、自分は知らない。


いずれにしても、


安全な道などないなら、


自分の好きな道を歩いたほうが人生は豊かであり、


楽しいものだ。


そう、沢山困難が待っているけど、


時々、本当に素晴らしいと思える時がある。


自分は、その素晴らしいと思える瞬間、


心から幸せだと思える瞬間が、


年齢を重ねるごとに増えてきたよ。


そう、本当に少しずつ少しずつ増えてきた。


ゆっくりと右肩上がりの人生は、


いいものだよ。


だから、何も焦る必要もない。


今の自分が嫌いでもいいし、自信がなくてもいい。


人に誇れるものがなくてもいい。


もし、それが今の自分であるなら、


これから少しずつ補っていけばいいだけのこと。


少しずつ、


前の自分よりも、今の自分のほうが好きになれたら、


それは、幸せなことだと思う。


・・


この先、何か困ったことがあれば、


いつでも、何処にいても


自分は、そこに行く。


全てを投げうってでも、


助けようとするだろう。


それが、普通の親というものだよ。


ただ、困難に立ち向かうことの邪魔はしないようにする。


残念なことに、


それは、手助けができない。


してはいけない。


たった一人で戦うしか方法がない。

 

 


きっと、この先にそういうことがある。


誰の人生にも、それが待っている。


勿論、立ち向かわずに、


逃げることだってできる。


時に、それも必要なことかもしれないね。


ただ、逃げてばかりの人生には、


それなりの未来しか待ってないものだよ。


お金だって同じこと。


楽して稼ぐ方法は、探せば沢山あるよね。


でも、それをする人としない人で分かれるでしょ。


しない人は、その先の結果を知っているから手を出さない。


貧乏暮らしがキツくても、


未来に投資する方を選択する。


苦しい事やツライ事というのは、ある意味人生の投資だよ。


もし、それを今自分の中で解決できたなら、


未来の自分には、もうその問題は困難ではないでしょ。


もっと先に進むことができるね。


そうやって、どんどん高いほうに向かって進んでいくものだよ。


選ぶのは自分。


何処で満足するかも自分次第。


自分の選択次第で、未来は常に変化していくものだよ。


・・


若い頃の自分には、自信なんてこれっぽっちも無かった。

 

自分が何かを成せるなんて、思いもしなかった。

 

ただ、ひとつだけ人とは違うことがあった。


それは、自分という存在に気づいたこと。


自分と他人は、違うでしょ。


それが、個性。


人と違うのに、


人を妬んだり、羨ましいと感じたりしている自分が、


バカバカしいと思ったよ。


そのうち、そんな事も考えなくなった。


自分にしかないものってなんだろう?


自分に何ができるのだろう?


そう考えてばかりいた。


その答えは、未だに分からない。


19歳で社会に出て、


25年も経つけど、


未だ、考えている最中だよ。


それぐらい、難しいことでもあるし、


きっと、人生が終わる時、


こう思うはず・・・


【長いようで、短い・・色々なことがあった人生だったけど、


結局、自分に何ができるのだろう?と考え続けたまま終わってしまったな・・


その過程自体が人生であって、それでも自分には、自分にしかない人生を送ることができたし、


辛いことがあった以上に、沢山幸せなこともあったな。


まぁ・・自分の人生としては、これで上々だろう。


満足したとは言えないけど、


十分に幸せだったな・・


十分過ぎるほどに、恵まれた幸福な人生だったな・・


感謝の気持ちでいっぱいなまま


この人生に幕を下ろせる。


ありがとう・・・】


まぁ・・そんな風に思って自分の人生の終わりを迎えるのかな?ってね・・・

 


人それぞれに、


その人なりの人生が待ってる。


それを懸命に生きるしかないよね。


だから、何も案ずることなどないよ。


何も心配なんてしなくていい。


堂々と自分の人生を謳歌してほしい。


寧々の人生をいつも見守っています。

 


愛する父より。

 

 

 

 

 

 

そして、単純化へ
あらゆる物事は、秩序から無秩序へ向かう。

そして、物事は単純な構造から複雑なものへと進化していく。

しかし、それはあくまで過程であって、
全てのエネルギーは、やがて【無】へと向かっていくものだ。
原始的な構造から多様化へと向かい、

多様化が飽和状態になると、

今度は、シンプルな方向に向かっていくのが、

物事の一般的な流れだと自分は思う。
ただ言えるのは、

初期段階の単純な構造が作りだす【シンプルさ】と

多様化を経て、最終的にたどり着く【シンプルさ】は、

見た目は同じシンプルでも、

内包している密度が違う。
思うに、この先の料理を考えたとき、

40年前に【より簡素に、より軽く】と謳われたムーヴメントと

多様化を経てこれから向かうシンプルな料理とでは、

大きな違いがあることに間違いはない。

まさに、それが【洗練】なのではないだろうか。
時代の波に洗われ、練られ、

時間に耐えられないものは、どんどん削ぎ落され、
 
最終的に残ったものがこれからの料理のような気がする。
・・

今は、次に向かう【単純化】への序章だ。
キュイッソンの精度を競い合う時代も終わったし、

マニアックな土着食材をクリエイションする時代にも限界にきた。

複雑すぎる料理、スタッフを多数必要とする料理、

本当は美味しくないがコンセプトありきの珍しい料理、

ビジュアルやパフォーマンスが先行された料理、

これらの料理に食べる側もそろそろ疲れ、飽きてもくる。

そして、何より先端を足り続ける料理人自身が、

飽きて、疲れている。
じゃー次のトレンドは何処に向かうのか?

そうなると、先に述べたように、

飽和状態になったら、今度は単純化へと向かっていく。

これからの時代、何が新しいのかというと、

僕の感覚でいうと、

素朴な表情だけど、洗練された料理。
その素朴さというのは、色々な表現の仕方があると思うが、

例えれば、昔からあるテクニックのブラッシュアップだったり、

原始的な器具を用いたものであったり、

食べる側が何か懐かしさやホっとするような・・・

そんなニュアンスだろう。

それをどうやって【洗練】させるかが、大きなポイント。

もし、それがなければただの古臭いものでしかないし、

客と作り手がノスタルジーに酔っているだけだ・・。
世の中には、様々な【表現物】があるが、

本当に良いものは、全て共通していて、

古典的な方法論を踏んだとしても、

作品を創り出す為の【感性】は、今に生きる人のものでなくてはならない。
今に生きる人の感性で創り出すことが全てだと僕は思う。

【今に生きる人の感性】

このフレーズが意味するところが

最も重要ではないだろうか。

先に述べたのは、そこが違っていて、

昔の感性の人が、古臭い感性の人を相手に、

ただ、昔を懐かしむだけで完結しているように思う。

それをノスタルジーに酔っているだけ・・と自分は思うし、

それを良しとした時点で、表現者としては終わりだと思う。
・・
何かを洗練させるには、

濃い密度でその物事と向き合い続けないといけない。
見つめ続けることで、

余計なものが削られていく。

その視線に耐えれないものは、

結局、時代の流れにも耐えることができない。

最終的には、【味】という目には見えないものを

見続けている作業なので、

皿の表情から推測できる情報は、

どんどん少なくなっていき、

最終的に、今のスマホ全盛、sns全盛時代の

ビジュアルで何かしらの評価を下す時代は、

料理においては意味をなさなくなるだろうし、

見た目で判断できる人の感性はより限られてくるように思う。

分かり易く言うと、

見た目でも判断はできるけど、

その見た目から本質的な味や香りまで想像できる人というのは、

稀であるということだ。

見た目で判断が付かない料理が増えることは、

実際に行くまでは何も評価できない。

それは、ごくごく普通のことであり、

本質重視に戻るだけのことかもしれない。

・・

もっと未来はどうなるのか?

単純化を極めれば、それは【無】だ・・・

人類は、そのうち食べる快楽よりも

別の快楽を見つけ出したなら、

その時間を使って、

新しい快楽へと向かうだろう。

一日1回のサプリメントの補充に30秒。

たった30秒の作業で、一日に必要なエネルギーを摂取できる。

もし、そんな時代がきたら、

外食産業は終わる。

100億人時代は、もうすぐ訪れ、

世界食糧難になることは、

随分前から話題になっているが、

サプリで事足りるなら、

そんな心配も回避できる・・・

ただ、僕の希望とは異なる。

美味しい食事をすることでしか得られない幸福を

人類は、他のどの生物より、よく知っているはずだからだ。

【無】の時代が来ることに間違いはないが、

それは、1000年、1万年・・1億年・・先?

それを今、考える必要もない。
現在、多様性を極めている料理の世界に身を置いて感じていることを

率直に綴ってみたが、

今の時代もそう長くなく、

多様化のピークの先には、新しい【単純化】が生まれるだろう。

それは、昔のシンプルではなく、

今を生きる人の新しい感性によって作り出される【シンプルさ】である。

その【洗練】をいち早く提唱できたシェフが、

次世代のトップシェフになるだろう。

それは、誰かって??
言うね〜(笑
多様性
多様性
勿論、昔から存在している言葉ではあるが、
自分が意識して使い始めたのは、ここ最近のことだ。
物事というのは、単純なものから複雑なものへと変化するようになっている。
それは、進化の過程でどうしても起こることだ。
人は、考える生き物なので、より進化させよう!と思うと、
どうしても多様な機能を増やす傾向にある。
まぁ、それも進化の過程にすぎないが、
それは、別で話すとしよう・・
・・
今の料理界でも【多様化】が進んでいるように思う。
昔と違って、料理も複雑になり、料理人、シェフ、お店に求められる内容も
多様に存在する。
だから、オーナーシェフとしてお店を構えようと思うなら、
料理だけではなく、様々な見聞を広げ、
多様な表現ツールを持ち合わせてないと、
時代の波に押し流されてしまう。
・・
人々の暮らす世界が成熟し、価値観の多様性が必要とされている現状は、
実に素晴らしいことに思えるが、
それはあくまで人が人生を生きる為に必要な価値観であって、
全てにおいて【多様化】が進み過ぎれば、
ある一方では、逆に単純化を求めだす人も増えるだろう。
・・
自分が今年45歳を迎える年となり、
あぁ・・もう25年もの間、料理を続けてきたんだなぁ・・と
愕然とした気持ちになった。
何を思って愕然としたかというと、
25年も同じことをし続けたのにも関わらず、
何一つ極めていないということにだ・・。

野菜ひとつとっても、肉も魚も、デザートは勿論、パンやシャルキュトリー・・
この料理の世界には、様々な【分野】があり、
その分野には、それぞれの【専門家】がいる。

料理の専門家であり、プロフェッショナルであるにも関わらず、
自分は、どの分野においても、
極めてもないし、専門家でもない。

もし、25年という時間を費やし、
何かひとつの分野に特化して、
修練を続けたなら、
今頃、卓越したプロフェッショナルになっていることだろう・・。

そう考えると、専門家というのは、
読んで字のごとく【専門】なだけあり、扱える範囲はとても狭く、
その代わり、とてつもなく深い。

広く、深く、網羅するには、
料理の世界はあまりに範囲が広く、
25年じゃ全く足りない。

まぁ・・自分の場合はそういうことだ。

・・
シェフの能力の多様化が全盛を極めている今の時代は、
もしかしたら、今がピークで、
これからの新しい時代は、【専門家】の時代なのかもしれない。
【プロフェッショナルの条件】という本に、
“まずは、専門家であれ”という言葉が綴られている。
何かで成果を上げる為に、絶対に必要なのが【専念すること】
これは【集中】という言葉でもいいかもしれない。
それぐらい、ひとつの物事を作り上げるには、
能力の集中が必要だということだ。
・・
今、様々な能力が求められている時代において、
その先を見越したとき、
本当に頭ひとつ抜ける能力は、
実は、【多様性】よりも【専門性】なのかもしれない。

25年・・・相当に色々なことに興味の赴くまま、
あれこれ手を出してきた自分が痛感しているのが、
まさにコレであり、
残りの料理人人生をあることに費やす
というのもひとつの考えかもしれない。

それが、自分にとって【プロフェッショナルの条件】に成り得る。
どう生きるか?


2018年も静かに始まった・・・

 

今年をどんな一年にしようか?

 

毎年、年の始めに、ふと・・そんなことを考える。

 

最近、巷で【君たちはどう生きるか】という本が売れているらしい。

 

まだ、読んではいないが、

この80年も前に書かれた本が今、漫画というフィルターを通し、

多くの人に共感を得ているというのは、

それだけ【今の時代】の先行きに不安があるからではないのだろうか?

 

・・・

 

今年をどんな一年にしようかと考えたとき、

今まで仕事中心だった生活を少し見直してもいいんじゃないかと思う。

仕事を精一杯することは、特に頑張るとかそういうことじゃなく、

当たり前にしなくてはいけないことになっているので、

今更、何か心に決める必要もない。

それよりも、【これからをどう生きるか】ということに

少し意識を向けたほうがいいように感じている。

それは、先の本【君たちはどう生きるか】が売れている理由と同様に

今、世界全体が進んでいる【未来】に対して非常に不安でならない自分がいるからだ。

何か本質的な【幸福】を置き去りにしたまま時代が加速しているように見える。

“今、進んでいる未来に本当の幸せがあるのだろうか?”

それをしっかりと検証しないまま、ある特定の人だけによって実行されている感が否めない。

・・・

人は、幸福を追求する生物だと思う。

誰もが皆、それを望む。

その為に頭を使い、何百年、何千年、何万年という歳月をかけて、
人類は、進化してきた。

より豊かな毎日を得る為に、

進化してきた歴史であり、

言い換えれば、それは進化の歴史でもあるが、

戦争の歴史でもあるように思う。

かつて人類は、太古の時代から争いを繰り返してきた。

より良い生活を得る為に、

他の部族を潰し、他の集落から土地を奪い、

自らの豊かさを確保してきた。

文明が築かれても、同じように、

大きな力を持った文明は、非力な小さい文明を呑み込んで

武力で制圧し、吸収し、更に大きな力を得て、

それが【豊かさの象徴】であるかのように力を誇示した。

そして、国家が築かれても同じだ。

小さな国を侵略し、植民地にし、原住民を奴隷にして働かせるか、

皆殺しにするか・・・

先の本が書かれた時代背景というのは、まさにその頃で、

日本が江戸幕府を解体し、明治時代が始まり、

近隣にある国に侵略を進めようとしていた時代だ。

“それが本当に豊かさであり、幸福なのだろうか?”

そんな末端国民の声は、閉ざされたまま、戦争に突入する。

日中戦争、日露戦争、第二次大戦へと・・・

国土を広げ、金を儲け、力を誇示し続けることが、

本当に望んだ豊さだったのだろうか?

・・・

敗戦した日本は、次に高度成長期へと向かっていく。

次に求めた幸福とは、世界一の経済大国“ニッポン”

まるで敗戦が夢であるかのように、

日本は復活した・・・かのように見えた。

過去の悲惨さも、同時に過去の過ちも忘れ、

また、あの頃のように何も検証しないまま時代は加速していった。

そして、バブル期が訪れ、すぐに弾けて消えた・・・

2000年・・21世紀の幕開け。

我々は、21世紀に何を夢見ていたのだろうか?

子供のころ、21世紀と言えば、手塚治虫のアニメに象徴されるような

煌びやかで美しく、豊かな世界を想像し夢見ていた。

 

しかし、現実で起こったことと言えば、9.11のテロだった・・・

 

何度も繰り返されてきた略奪の戦争によって世界の大国となったアメリカに向けた報復だ。

大きな文明が小さな文明を滅ぼしてきた歴史がここにきて限界に達したのではないか?

アメリカは、自分たちにとって都合の悪い国を制圧することを正義と置き換えた。

【テロとの戦い】 【テロに屈しない】

しかし、テロリスト対して、されたこと以上の暴力によって

【屈する】ことを要求している。

何故、テロリストが生まれたのか?

そこに目を背けたまま、新しい戦争を起こし、

次のテロを生む温床を作り出している。

これらが、果たして人類にとって進化であったのだろうか?

これらが、果たして我々が望んだ豊かさだったのだろうか?

権力と富は、一体なにを生んだのか?

いまだ人類は、権力と富を得る為に戦争を繰り返している。

・・・

君たちはどう生きるか・・・

まさに、今・・僕たちはどう生きるか?を考えなくてはいけない。

過去の過ちを反省も、検証もしないまま、

また、同じように空虚な時代を作ろうとしている。

本当に望むべき未来を皆が空想したほうがいい。

そして、もっと真剣にそれらを具体的に提案したほうがいい。

ヒトが幸福に生きることとは何か?

それらをひとりひとりが真剣に考え、【どう生きるか】という問いに
向き合うべきだ。

今、また過去と同じように何の検証もないまま、

テクノロジーの進化が加速している。

これは、もう誰も止めることが出来ない。

人工知能の進化は、まさにその核となることに間違えない。

我々は、本当にソレを望んだのだろうか?

人類にとっての【進化】とは、本当にそういうことなのだろうか?

自分は、そうは思わない。

決して止めることも、拒むこともできないだろうが、

僕は、それを本当の進化とは思えない。

この地球上で唯一の人である【ホモ・サピエンス】という極めて優秀な種の最終的な進化が、

もし、この程度であるなら、延長上にある未来は、【種の集団自殺】になると思う。

僕の目に映る今の世界を牛耳っている人々が、

人工知能というテクノロジーを人類のために有益なものとして

使用するように思えないからだ。

この世界を動かしているのは、金と権力だ。

金と権力を手にした人間には、終わりがない・・・

とことんまで貪る。

世界中の全ての金を貪ろうとする。

人工知能は、その道具に成り下がることで、

次の争いを生み、

その争いは、全人類を巻き込む。

とても複雑な未来型戦争は、とことんまで貧富の差を2極化するだろう。

手段が複雑なだけで、やってることは太古の人類と何も変わらない。

【自分ファースト】の極みだ。

僕が思う人類の進化とは、

ホモサピエンスが唯一持ち合わせた【創造性と知能】の進化だと思う。

今の時代の価値観を覆すためには、ドラスティックに社会構造を変革し、
新しい幸福の仕組みを提案することだ。

そして、知性の行きつく先は、
2度と戦争を起こさない・・ということに気づくことだ。

それこそが、野生動物にはない精神であり知性であるように思う。

種の保存という本能によってしか行動理由のない動物と違い、

人は、長年の進化によって地域全体、国全体の和平を保とうという、

極めて理性的な考えを持つようになった。

かつて、隣の部族を襲撃したり、同じ国の中で殺し合いの内戦をしていた時代を経て、

今の和平があるように思うと、次の進化は【種全体の和平】しかない。

今の時代、何県出身だろうが、日本人であることに変わりはなく、

都道府県同士で殺し合いなどしないのがあまり前であるなら、

同じ【ホモサピエンス】という一つの種である世界中の人々は、

同胞であることに間違えなく、もし本当に我々が優れた種であるというのなら、

最終的な答えは、人類の和平を当たり前のこととして捉えることの出来る能力じゃないだろうか?

・・・

仕事に懸命であることに、この先も変わりはないだろうけれど、

そのもう一方で、ひとりの人間として【どう生きるか?】を考えている。

それは、10代の頃と何も変わらない・・・

とてもシリアスな子供だったのかもしれないけれど、

自分の人生を生きているのは、自分ひとりでしかないのなら、

自分が真剣にならなくて誰が真剣になるのだろう?と思う。

今年、2018年をどう生きようか?と考えたとき、

ふと思ったことが、誰かの為に生きてみようかな?という想いだった・・

この変化は、自分にとって興味深い。

愛のない人生は、なんの意味もなく、

実に味気のないものだ・・・

つくづくそう思う・・・

 

基本

 

何においても基礎や基本がない限り、その応用はない。

 

何処にいってもことさらに“基本、基本”と言われる。

 

料理の世界においても、

 

基本が出来てない!とか、

 

まずは、基本が大切。とか、

 

誰もが口にする。

 

ごくごく当たり前のことで、

 

自分も若いスタッフには、うるさく言う。

 

基本の重要性は、この25年のキャリアの中で

 

随分と考えてもきたし、何度も痛感してきた。

 

だから、今更文書にするようなことでもないし、

 

あるレベル以上のシェフは、誰しも同じようなこと言っているので、

 

わざわざ、自分が言うようなことでもない。

 

 


僕のようにひねくれた思考の持ち主であれば、

 

そんな分かり切ったことより、

 

もっと斬新が意見があってもいいかな?とふと考えてみた。

 


基本??

 

そんなもん、どーでもいいんじゃないの?ってね。


・・

 

これは、さんざん基本の重要性を考えた人にのみに有効な言葉かもしれないけど、

 

良い結果を生み出す=基本ができている人。

 

という方程式が、必ずしも正しいくはないということ。

 


事実、我々の商売は、目の前の人を喜ばすことができてナンボの商売だ。

 

しかも、継続的に何十年も常に目の前のお客を喜ばせ続ける才能があるなら、

 

その人は、【良い結果を出している】と言えるだろう。

 

基本や基礎というのは、良い結果を生み出すための

 

ほんの1パーツにすぎない。

 

・・と、そんな見方も出来る。

 


例えば、専門的に音楽を学んだことのない人がいるとして、

 

学生時代に趣味で応募したコンクールで入賞し、

 

たまたまレコード会社の目に留まり、

 

メジャーデビュー・・なんて話は、またにある。

 

楽器も我流で上手いとも言えず、

 

歌も生まれつきの能力だけでやってる感じで、プロフェッショナルではない。

 

ただ、人の心に響く歌声で、

 

人間的にも魅力的。

 

売れ始めてから、後付けて色々なスキルを身に着けていった。

 

だけど、売れた要因は、スキルではない。

 

人を惹きつける魅力があったからだ。

 

・・

 

表現物には、様々なものがある。

 

音楽、絵画、写真、映画・・・などなど実に様々だ。

 

人を魅了する作品を創り出す人って、

 

皆、基本や基礎がしっかり出来ていた人なのだろうか?

 


実は、後付けタイプのほうが多いような気がする。

 

はじめは、【表現したいんだ!】という若さというか、強いエネルギーで

 

突き動かされるように作品を生み出してきたんだと思う。

 

ソレが、多少粗削りでプロからみて、

 

スキルが素人っぽくても、

 

それを凌駕する【魅力】があれば、

 

人は【感動】する。

 

 


もしかしたら、我々の業界は、そういう迸るようなエネルギーを潰しているのかもしれない。

 

修行、修行もいいけど、

 

基本ばかりの反復と雑用ばかりのキツイ仕事で、

 

その人がもっている可能性や個性、素晴らしいエネルギーの源を

 

がんじがらめの世界に閉じ込め、ダメにしていることも多いんじゃないだろうか?

 

 


我々の世界は、旨いもんを作れてナンボ。

 

そこには、基本的なメソッドがある。

 

その基礎をしっかり身に着ければ、

 

後々自分の財産になる。

 

100人いて、99人は、そういう一般的な方法論で

 

きちんと学んだ方がいいかもしれない。

 

ただ、それが全てではない。

 

今、挙げたように、

 

その方法一辺倒では、せっかくの【面白いヤツ】が、【つまらないヤツ】になる。

 

そして、どんなに素晴らしい基礎を学んだとしても、

 

最終的に結果を出せる人は、ほんの一握りだ。

 


そう・・

 

自由にやろうが、きっちりやろうが、

 

最終的に一握りの人しか結果が出ない世界なら、

 

自由にやってもいいんじゃないの??

 

これは、最終ゴールを何処にするかの問題もあるけど、

 

そういう考えがあっても間違えではない。

 


人を喜ばせる才能に、基礎も基本もないということだ。


若いスタッフの教育上、これほどの問題発言もないようにも思うが、

 

我々は、職人であること以上に、

 

人に【感動】というものを【創造】する職業であることを

 

よく頭に入れておいてほうがいい。


もし、自分にその才能があると思うなら、

 

我が道を進むべき。


そして、自分の信じる道を辛くても進み切る。

 

その先に何が見えるのか?

 


結局、

 

【やっぱり基本は大切だな・・】・・と、

 

自分で気づく日がくる・・

 

 


そんなオチ(笑

 

 

 

・・・

 


最後に余談かもしれないが、

 

最近、年を重ねたせいか若いエネルギーがとても輝いて見える。

 

その“一瞬の輝き”の尊さを我々はもっと大切にしてあげるべきだと強く思う。

 

何故、その輝きを認めることや賛美することよりも、

 

潰すような態度に出る人が多いのだろうか?

 

自分たちが、かつて修行時代に味わった苦しみや辛さを

 

同じように味合わせたいという思いもあるんじゃないだろうか?

 

心の奥底にある、その思いは一体何を産むというのだろう?

 

この業界を愛しているなら、数少ない貴重な人材をもっと大切に扱うべきだし、

 

もっと尊い存在だと思うべきだと思う。

 

その【愛】が不足してるように感じる。

 

 

ゆとり教育の弊害に対する社会の反省や、甘やかしから一体何が生まれるのか?という声。

 

そういう意見とこの問題を同レベルで語ることも間違っている。

 

無意味に甘やかす必要もない代わり、無意味に厳しくする必要もないということだ。

 

過去の反省点として、無意味な厳しさというのもの日本の社会にあったことを反省すべきだ。

 

極端な方向で議論すべきじゃない。

 

バランスの取れた中で愛を持って指導すべきだし、

 

門を叩いた時にあった若者の輝きやモチベーションをもっと尊重し、

 

大切に扱うべきであると自分は思う。

 

ある部分は、昔とは違う。

 

その時代にあった教育の仕方もあるだろうし、

 

今までの概念にはなかったような新しいトライアルもあっていい。

 

その中には、時代に関係なく人を育てる上で重要なキーワードがあるだろう。

 

【個の尊重】【精神の自由を与え愛をもって見守ること】

 

そうした本質を理解した上で、

 

若い子たちにチャンスを与え、未来を創造してもらわない限り、

 

この国にも、この業界にも明るい未来はないように思う。

 

ここからが本当の余談かもしれないけど、

 

自分のように出来の悪かった人間が出来ること、言えること、

 

してあげれること・・・を考えた時、

 

やはり、今までとはアプローチの違う方法で、

 

若い子の才能を伸ばしてあげたいと思うのです。

 

 

基本に忠実であることも大切だけど、

 

振り切るほど、自由に想いを表現することの大切さと楽しさを伝えたいと思うのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夢・人生観

 

 

 

 

 

 

 

僕は、夢ばかり見てる、夢のない子供だった・・・

 

18歳の時、この先の進路をどうしようか?という時期に、

 

最初はデザイン学校の願書を片っ端から集めていた。

 

何処のデザイン学校にしようかと迷っている頃に、

 

ふと・・“調理師免許をとったほうが現実的じゃないだろうか?”と思った。

 

全く夢のある発想ではなく、どうやって暮らしていくかを考えていた。

 

・・

 

僕は、子供の頃から夢という言葉があまり好きじゃない・・。

 

何か、その背景にある大人たちの思惑が隠されているような気がしていたからだ。

 

だから、若い頃から甘い夢など見たことがない。

 

あるのは、厳しい現実のみだと思っていたし、

 

【今】という瞬間を生きるだけで、

 

精一杯だった・・というのが正直なところだ・・・。

 

・・

 

我々は今の若者たちに何を伝えられるのだろうか?

 

そして、どんな未来を提案すべきなのか?

 

日々、伝えていること。

 

日々、与えていること。

 

それは、それぞれの将来の目標に向けて役立つだろう生きる術だ。

 

では、その目標とは何か?

 

【その目標を達成したとき、君は本当に幸福なのかい?】・・と問いただす。

 

それは、本人にではなく、伝えている自分自身に対してだ。

 

・・

 

人には、一人ひとり異なった目標や夢や幸福感がある。

 

しかし、人によっては、

 

自分にとって本当の幸せとは何か?が分からないまま社会に出る。

 

そして、そこに目を付ける悪い大人たちもいる。

 

それは、昔も今も同じだ。

 

個の人生観が確立する前の若者に対して、

 

夢を煽る・・

 

【若者たちよ夢を持て!】と・・。

 


その大人たちが勝手に描いた夢に乗って、

 

必死で頑張って、その先に手にしたものは、

 

大人たちに貢ぐための金だった・・

 

そして、そんなカラクリにも気づかぬまま、

 

社会に埋もれていく・・。

 

 

よくある話だが、そうはなってほしくないし、

 

自分自身が若い頃、そうはなりたくなかった・・

 

夢を持つな・・とは、言わない。

 

しかし、甘い夢は捨てるべきだ。

 

それが本当に【自分が求める幸福な姿】なのかをよく考えたほうがいい。

 

・・

 

どの職業においても一流と呼ばれる人がいる。

 

そこを目指したり、憧れることは悪いことではないし、

 

自分を高める上でもよいことかもしれない。

 

だけど、【憧れること】と【目標】にするのでは意味が違う。

 

自分の身の丈を遥かに超える【目標】を設定して、

 

挫折してしまう人が殆どである現状を冷静に考えたほうがいい・・

 

 

人には、生まれ持った宿命というか、その人に合った器が用意されているように思う。

 

その器は、大きさも違えば、色、形が全て違う。

 

だから、1000人いれば、1000人の人生があり、人生観があるはず。

 

なのに、大雑把に3択か4択程度のオプションしか与えられなかったとしたら、

 

そこからはみ出してしまった人は、可哀想だ・・。

 

それは、今の教育制度の延長にあるのかもしれない。

 

社会に出てもそれは同じ。

 

そうなってくると、知らぬ間に人の夢に乗っかったり、

 

見てなかったハズの夢を見させられたり、

 

自分という固有の存在が取り残された形で、

 

どんどんと時間だけが過ぎていく。

 

本当にコレでいいのだろうか?

 

薄々そう感じつつも、もう止めることも変える勇気もない。

 

自分の身の丈に合わないものを追いかけて、

 

そして、躓き、這い上がれず、挫折する。

 

それが生存競争に負けたもの・・とみなされ社会は切り捨てる。

 

そもそも、その原因を作ったのは誰か?

 

【夢】を煽った大人たちの罪か?

 

それとも、それに乗った若者たちの未熟さか?

 

それは、両方かもしれない・・・。

 

だから、その罪を誰も見つめようとしない。

 

そして、煽った大人たちは心の中でこう呟く。

 

“才能なく、努力も足りず、夢を追いかけたが故の敗退、それは自己責任”と。

 

自己責任という、とても都合の良い言葉があって、

 

結果がどうあろうと、それはソレを選択した【あなたの責任です】と社会は言う。

 

でも、経験を積んだ大人たちは、若者を見て、

 

ある程度の判断は初期段階で分かっているはず。

 

しかし、そこでもこう言う・・

 

“誰しもに未知の可能性がある!夢を諦めず努力しよう!”と・・・。

 

そんな思ってもないことを口にして

 

若者たちを戦場に駆り出した罪は重い・・。

 

 

・・

 

僕がお勧めしない理由はこの辺にある。

 

高い意識を持ち一流を目指すことと、

 

身の丈を知らずに上昇志向に乗って、

 

勘違いしたままに他人が作り上げた張りぼての夢に向かうこととは、

 

本質的に違う。

 

自分だけが本来持ち合わせた【身の丈】に合った【目標】を設定すべきだと思う。

 

これは、現実を見て小さく纏まれ・・と言っているわけではない。

 

ごく自然体で、自分を見つめ、自分を知り、自分に合った人生のプランニングをするべきだと思う。

 

今の時代は、あまりにも情報が多いし、

 

様々なメディアからの情報も簡単に入る。

 

スマフォひとつで、世界で活躍する人物の姿を目の当たりにすることができ、

 

それはあたかも【隣の友人】のような親近感すら覚え、錯覚する。

 

“自分もこうなりたい!こう成れるんじゃないか?”と・・・。

 

そう思う簡単さとは裏腹に、そうなる為の努力はしない。

 

まさに、ソレが夢のような幻想だ。

 

だけど、僕は今の時代は、情報が多いからこそ、

 

自分で自分に合った人生を自由にプランニングできるように思う。

 

昔は、もっと選択脚が少なかったし、

 

何かに挑戦するにも今の何倍も苦労が必要だった。

 

今の方が遥かに様々な間口は拓かれていることを考えると、

 

これは、昔と比べ有利でもある。

 

そうした、良い部分を活用し、周りに惑わされることなく、

 

情報を選択していければ、自分なりの道が拓かれるように思う。

 

だからこそ、まずは自分自身をよく知ることから始めて欲しい。

 

【そこが全ての出発点であること】を再認識してほしい。

 

それを置き去りにしたら、最終的なゴールはない。

 

・・

 

何を目指すか?という目標設定の前に

 

スタートラインの設定をすることから始めるべきだ。

 

皆、ここが抜けている。

 

スタートラインは、自分を知ること。

 

自分が掲げている目標は、自分にとって幸福であるか?を吟味すること。

 

それを達成し、自らの手に収めた時の自分をリアルに想像すること。

 

そして、スタートから目標達成に至る経緯に無理がないか?

 

それが【自分】にとって可能であるかを検証すべきだ。



・・・

 



【人が夢を見る・・それが【儚さ】である】

 

 

僕が、この言葉を目にしたのが丁度、中学生の時だった。


 

それからも僕は夢を見続けて、追いかけては、



何度も挫折し、


 

そこから這い上がり、やっと夢を捕まえて、



この手の中に収め、


 

見つめてみた・・

 


残念なことに、ソレは手から零れ落ち、


瞬く間に消えた。


【夢ってなんだろう?】


それは、カタチの無い自らが創り出した幻想だった…


だから僕は、また追いかけるのです。

 








 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

解放

 

僕は、ただ自由になりたかった。

 

【自由】という言葉に惹かれ続けた・・・

 

そして、【自由とは一体何か】ということをずっと考えてもいた。

 

当時20歳ぐらいだったと思う。

 

 

 

抑圧された社会。

 

封建的な会社。

 

20歳の若者にとって、

 

反発心を抱く上で、これ以上ない環境だった。

 

もしかしたら、

 

当時の自分にとって、その【不自由さ】は、

 

幸せだったのかもしれない・・・

 

 


もし、仮に自由な環境であれば、

 

僕の中で【自由を手にしたい】という願望は、生まれなかっただろう・・・

 

 

 

僕は、会社を辞め、

 

社会から飛び出し、

 

そして、日本からも抜け出してしまった。

 

独りフランスに旅立った僕の中には、

 

解放感と同時に無気力で無力な自分がいた。

 

全ての抑圧から解放されたはずの僕には、何もなかった・・・

 

 

 

【自由って一体なんだろう・・・】

 

 

時が過ぎ、

 

僕は、シェフになった。

 

もう、上からの指示で料理を作ることはない。

 

僕は、僕の料理を作ればいい。

 

僕は、自由なのだから・・・。

 

 


そこでも、また抑圧が待っていた。

 

業界には、フランス料理とはこういうものである・・という

 

暗黙のルールや規範があった。

 

 


今にして思えば、それは幸せなことだったのかもしれない。

 

その枠から一歩はみ出すだけで、

 

異端と呼ばれる。


それは、批判でるあると同時に、

 

周りの料理人にとって脅威でもある。


僕の表現は、良くも悪くも噂になった。


僕の住む街は、閉鎖的だ。

 

そして、ほんの小さなコミュニティーで形成されている。


ちょっと変わったヤツが出てくれば、

 

アッという間に噂にしてくれる。

 

僕にとってソレは好都合だった。


批判されればされるほど燃えてくるし、

 

抑圧が強ければ強いほど、

 

そこからはみ出そうとする。


だけど、今の僕には戦う相手がいない・・・

 

社会にも受け入れられ、

 

会社は僕のもの。

 

この業界でも、そこそこ名前が売れた。

 

もう、昔のように反発する相手がいなくなった。

 

 


業界では今、何をしたところで世界という枠組みの中では、

 

平凡の域を出ない・・・

 

この街で個性的であろうとも、

 

世界のガストロノミーの中では、

 

取るに足らないことだ。

 


自由であることやエキセントリックなことは、

 

もはやスタンダードであるといってもいいぐらいに、

 

世界の食のシーンは、自由に溢れている。

 

そうなってくると逆に、

 

際立ったシンプルさや素朴なものの方が個性的にも見えたりする。

 

僕の求めていた【表現の自由】って、一体なんだったのだろうか?

 


【枠】というのは、大切なものだ。

 

そして【自由】というのは、

 

逆に表現をつまらないものにしてしまいがちだ・・・

 


【自由】は時に

 

解釈の過程で、

 

【デタラメ】にもするし、

 

【なんでもあり】にしてしまう・・・。

 


デタラメやなんでもあり・・は、ルールの枠に収まっていない。

 

格闘技の世界で【この試合のルールはなんでもありです・・】とかいったりするが、

 

なんでもあり・・は、ルールじゃない・・。

 

ルール違反すらルールです・・という解釈がめちゃくちゃだ。

 

そういう類のものには、品がない。

 

そして【面白味】がない・・・。


ルールや枠があるからこそ、

 

【際立つ】表現がある。


僕の持ち味を考えても、

 

今の【なんでもあり】の世界は、

 

非常に【生かされない】

 

自由があまりに飛躍していくと、

 

【解放】は解放ではなくなるし、

 

表現の爆発力は半減する一方だ。

 


【解き放たれたい・・・】


表現者にとって、

 

そのエネルギーが表現に爆発力を生み出し、

 

光と輝きを与える。

 


僕が待ち望んだ【自由の世界】は、

 

手にしてみると、

 

【何もない世界】だった。

 


まるで、20歳のころに感じた

 

あの空虚な気持ちと重なるように・・・

 

 

 

 

 

 

 

真実は、美しい。 美しさもまた、真実である。


【真実は、美しい。 美しさもまた、真実である】

 

この言葉は、ある細胞学者の英語文を私が自分の解釈で和訳したものである。


ネットで検索しても、これと同じ文は出てこない。

今後、この言葉を検索するとこのブログに辿り着くはずだ。


・・


この言葉は、実に深い・・・。

たったこの一文で、全てを言い表しているように思える。


美しさとは何か?


という漠然とした問いに対して、

その更に上をいく抽象的な答え。


しかしながら、

この言葉は、

その全ての意味合いを内包しながらにして、

シンプル且つ、的確に

その答えをいい表している。


この文こそが、まさに美しい・・・


・・・


引くことも、

足すことも出来ない、

過不足のなく流れる言葉。


美しさとは、

そういうものだ。

 

そして、それが真実。


真実には、補足など必要がない。

嘘には常に言い訳がついて回る。


・・・


僕の汚れた精神は、

いつも、真実を突き付けられ、

怯え、跪く・・・


僕にとって、表現とは修行であり、

精神の浄化であり、

自己の探求である。


いつも、自分を探し、

美しさを求め、

真実を追いかける・・・

 

 

 


【真実は、美しい。 美しさもまた、真実である】

 


本当に美しいものに出会いたい・・・

 

そう心から願う【精神】


その【祈り】の中に

自分の本当の【姿】が見えたとき、

僕は終わってもいいのかな・・・

 

真実の美しさを知らずして、

死にゆくことは、実に悲しいことだ・・・